甘い水の匂いがする。
 塵だらけの渇いた薄暗い地で絡められる、どこか覚えのある小指の感触。視線は交わらない。水が滴り落ちてくる。私は彼女と何か大切なことを約束したはずだったのに、頭に靄がかかったように思い出せない。
 それがとても悲しかった。


▲▼


 差し込む日差しが痩せた頬を照らす。目尻から零れ落ちた涙が陽光を反射して、朝の訪れを告げている。少女は一体どんな夢を見ているのか。
 日当たりと風通しばかりいい部屋は、それでも夜と比べて幾分暖かかった。身じろぎして子供が息を吐く。あまりにもか細い呼吸に、数日前にこの部屋で死んだ妹のことを思い出して胸が詰まるように痛かった。
 ぼさぼさの髪の奥で瞬きをして、少女が夢から目を覚ます。それに少し安心したカシムは息を吐いて、ガラガラと渇く喉を通すため何度か咳払いをした。

「起きたか?」
「…………セキしてる」
「ああ、気にすんなよ。これくらい、ゲホッ、すぐ収まる」

 カシムは昨夜眠りにつかなかったのか、真っ赤に充血した酷い目元を擦った。胸の奥から這い上がるような渇いた嫌な咳。その不吉な音に聞きおぼえはあったが、仲間たちの手前はもちろん、自分にすら気付かれないようにして過ごしていた。
 流行り病は時間をかけて蝕む。
 それよりも体調はどうかと、カシムの手が子供の額に当てられる。熱は無さそうだ。簡素な布団に寝転んだままそれを真似するように、小さな手が少年の額に当てられる。触れた指先は体温の低い額よりも熱く感じた。

「っ、ゲホッゲホッ」
「!! お、おい!」

 途端、先ほどのカシムと似た咳をした子供にぎょっとして首の後ろを支える。まさか伝染させてしまったのかと狼狽したとの時、仰け反った喉の奥から、何か黒い塵のようなものが宙に舞った気がしてカシムは言葉を失う。
 今のは一体何だ?
 だがそれもほんの一瞬の出来事だった。ハッとして顔色を見れば、穏やかな呼吸に戻っている子供にほっと胸を撫で下ろす。自分以外に部屋にある生命の存在に、カシムは紛れもなく救いを感じていた。

「カシム!起きてるかい?」
「今朝の市来なかっただろ?今日はそれなりだったぜ」
「ハッサン、ザイナブ」

 威勢のいい声が響いて、見慣れた人影が部屋に顔を出した。カシムとそう歳は変わらないが体格のいいハッサンと、その恋人である気の強そうな美人のザイナブ。二人ともカシムと特に親交厚い仲間で、仲間思いの彼らは昨日からカシムの様子を心配していたに違いなかった。
 ハッサンが果物を手渡し、ザイナブは横たわっている子供に調子はどうかと声をかけた。アンリは急に増えた知らない人物にうろうろと視線を彷徨わせたあと、小さな声で応える。ザイナブはそれに満足げに頷いたあと、勝手知ったるとばかりに部屋へと上がり込んだ。

「顔色は良くないけどわりと元気そうじゃないか、良かったね。しかしあんた酷い格好だよ!女の子なんだから……あー!」
「何だよ」
「甕がもう空だ、全くだらしないんだから……ハッサン!井戸から水を汲んできな」
「何で俺なんだよ!」
「そのでかい図体は何のためにあるのさ」
「いい、いい。自分で行くからよ」
「あっいやいやカシムが行くなら俺が行くぜ!最近体調良くねぇんだろ?」

 そうハッサンに言われてカシムはふと、喉の不快な感じが消えていることに気付いた。
 唯一残った家族のマリアムを失ってから、カシムの体調は目に見えて悪くなった。食べ物もろくになく衛生状態の悪いスラムでは元々まったくの健康体は少ないが、彼のそれは明らかに精神的な負担と看病の疲労が表れていて、仲間も皆気が気でないという感じだった。
 それが今はどうだ、唾を飲み込んでも引っかかりもせず、先ほどガラガラと嫌な音を立てていたのが嘘のように呼吸が楽になっている。フッと目元を緩めて笑ったカシムに、ハッサンは目を丸くした。

「誰に言ってんだよ、ハッサン。俺が水汲みもできねーくらい死にそうに見えるか?さっさと行こうぜ」
「お……おう!」

 足取り軽いリーダーの姿に、ハッサンは顔を明るくしてもう一つの甕を持って続いた。ザイナブは甕に残った水に手拭いを浸し、子供の汚れた顔や体を優しく拭ってやる。アンリは戸惑いながらも、その感触に気持ち良さそうに目を細めていた。
 ザイナブの手つきは実に手慣れていて、アンリはあっという間に綺麗になり、ぼろ布はゆったりした生成りの服に着替えさせられた。子供用の小さな衣服のはずだが、それでも貧弱なアンリには大きくワンピースのようになっている。

「うちにも弟が居たんだ。あんたと同じくらいだったんだけど、やっぱりちょっと大きいねぇ」
「……おとうと」

 遠い思い出を語る声。
 居た、というのはもうそれが過去だということだ。砂や埃の絡まったぼさぼさの髪を擦るように拭いてくれる彼女の手を見ながら、アンリは言葉を失って唇を結んだ。それに気付いたのかザイナブはにっと明るく笑い、懐から歯の揃った木の櫛を取り出して子供の髪を手に取った。

「でも、妹もいいもんさ!こんなのは男どもには理解できないからね……あら」
「?」
「あんた整えると髪がまっすぐだし綺麗じゃないか。ほら触ってみなよ、あんなにしっちゃかめっちゃかだったのにほとんど痛んでない!」

 はしゃいだような声に促されて恐る恐る伸ばされた小さな手が、まるで見当違いの場所で空を切る。ザイナブが目を丸くしているのにも気付いていないのか、自分の身体の上をぱたぱたと探し、アンリはやっと髪に触れていた。


▲▼


 日差しが強くなってきた。
 カシムとハッサンが甕を持って家に戻ったタイミングで、ザイナブが気まずそうにそーっと外に顔を出す。子供の世話を楽しみにしていた時と大分違う様子に一体どうしたのかと首を傾げた二人に気付いて、彼女は天の助けとばかりに駆け寄ってきた。
 ザイナブは何故か周囲を警戒しながら顔を近づけ、手で口元を覆ってこそこそとまるで怪談話をするように声を潜める。

「あのさ、エレシュキガルって何だと思う?」
「エ、エレ……?」
「あの子、ずっと目ぇ瞑ってるからもしかして痛いのかと思って聞いたら『エレシュキガルが死なせるからダメ』って言っててさあ、なんか怖くて聞けなかったんだよ……」
「ギャー!何だそりゃあ!」

 聞き馴染みのない物々しい名前と「死なせる」という響きに怯えるザイナブに釣られて、巨漢のハッサンまで情けなく顔を青くした。子供が口にした検討もつかない謎の存在に怯えている二人に呆れたように、カシムは堂々と甕を持って家に入っていく。
 バルバッドは流石オアシスの地だけあって、食べ物に困っても水が尽きることはない。たっぷり水の入った重たい甕から水を汲んで、布団の上に座ってぼんやりしているアンリに手渡す。ありがとう、とやはりか細い声が返ってきた。

「なあアンリ、エレシュキガルって何だ?」

 聞いた!と部屋を覗き込んでいた二人の動揺が伝わってくる。器を両手で抱えて冷たい水に口をつけていたアンリは、ザイナブがせっかく整えて流してくれた長い前髪をわざわざ顔に被さるようにして俯く。

「……なんだろう」
「知らねえのかよ」
「でも、女のひと。顔と目はほとんどみえない。見ちゃいけないの。わたしの目と同じで死んじゃうから」
「お前の目ぇ見ると死ぬのか?」
「すぐじゃないよ」

 でもダメ、と頑なに瞼を開けようとしないアンリの頭を軽く撫でると、絡まりの解けた髪は驚くほど手触りが良かった。彼女の言うエレシュキガルというものの姿はどんなものなのか、声はどんなかと細かく尋ねてみると、子供はぽつぽつとではあるが楽しげに喋りはじめる。それはまるで子が親のことを慕わしげに語るような表情だった。
 しかし何を話すのかと聞いたとき、アンリは急に言葉に詰まる。考えを巡らせるように俯いた前髪と額をまた撫でてやると、決まりの悪そうに口をへの字にして呟いた。

「やくそく……」
「ン?」
「約束、っていってたけど、なんなのか忘れちゃった」
「そっか、じゃあ思い出したら教えてくれよ。俺も話してみてえな、そいつと」
「……うん」

 空になった器を側に置いて、子供の真っ黒な髪を上から下へと梳いてやる。繰り返し繰り返し撫でていると、じきにこっくりこっくりと頭が船を漕ぎ出してきた。昨晩に比べれば大分人間らしい顔色になったとはいえ、まだ疲労は深いのだろう。そっと肩を押してやれば、羽のように軽い体が布団にぽすんと倒れこんだ。
 どこか懐かしそうにしながら子供を寝かしつけ、穏やかに眠りについた寝顔を暫し眺める。やっと部屋に戻ってきたハッサンとザイナブも、あどけない寝顔を前にすればすぐただの子供を見る目になっていた。

「ありゃ、見えないお友達ってやつだろ。ちいせえガキがよく空想で作る話し相手だよ」
「ほんとにィ?」
「もっと小せえ時だったけど、マリアムがそんなこと言ってた。こいつ、いくつなんだろうな……」

 口調が思ったよりしっかりしていたから、体の発育が悪いだけでそれほど幼くないのかもしれない。眠ってしまった子供の頭を撫で続けるカシムの手つきは酷く優しく、その所為でどこか悲哀を纏わせていた。
 スラムで死にかけていた子供を放って置けなかったのも確かだろう。けれどハッサンもザイナブも、或いはカシム自身も、彼が妹を失って心にぽっかりと空いた穴を埋めるようにアンリに優しくしていることは分かっていた。子供の身に降りかかったであろう悲劇を思えば薄情かもしれないが、少し顔に生気の戻ったカシムの顔を見れば「現れてくれてよかった」と二人は感じずにはいられなかった。

 この地獄で生きていくには、彼女もきつい労働や食べ物がない苦しみを味わうことになるかもしれない。それでも、カシムは懐に入れた人間を見捨てることはない。それだけが彼女がボロボロのなか手に入れた唯一のそれでいて無二の幸運だった。
 それに、もう終わる。
 少年の思惑を知らず、変わらぬ日々が始まる。子供の頼りないつま先を照らす太陽の近く、不思議な鳥の鳴き声が小さく響いていた。

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