蝉というのは雨の中では鳴きわめかないものではなかったのか。ナマエは汗と湿気に張り付くプリーツスカートを軽く払って、心中で一度舌打ちをした。ソファに横たわる白い首筋にも、玉の汗が伝う。 涼を取ろうと乗り込んだビルの一室は――この猛暑にやられ、冷房器具全てが生ぬるい息を吐くだけのおっさんとそう価値が変わらないものに成り果てていたのだった。
「これだったら……どっかで適当な浮遊霊でも引っ張ってきたほうがましだわ……」
一匹につき二度低下は固いわね。少しでも熱を減らそうと照明を全て消した『霊とか相談所』に、ぽつりと声が沈む。 そう『霊とか相談所』。数年ぶりに再会した彼女の幼馴染はモテたい――モテたいというのは不特定多数に向けた言葉で、目下ツボミという少女に片思いしている彼にはふさわしくないように思えたが、それくらいの不純な気持ちということなのだろう。――という理由で『肉体改造部』だなんて愉快なものに入っているし、バイト先は『霊とか相談所』。 「ふざけてる」と今度は少しだけ楽しそうなナマエの笑声が、蝉しぐれに混じった。 雇い主の霊幻は時給三百円という舐めた値段でこちらを利用してくるし、当の幼馴染、シゲオはそれを「でも、時々たこ焼きとかおごってくれるし」と納得している様子だった。さらに「たこ焼きがなんだっていうのよ」と彼女が膨れてみせたところ、「あれ、ナマエってたこ焼き嫌いだったっけ?」と見当違いの答えが返ってきた。思い返すと腹が立つような笑えるような不思議な気分に、へその辺りがもぞもぞとする。
「モブのバーカ」
その感情に名前をつける代わりに、ナマエはもう一度小さくつぶやいた。 ――届くはずの本人は、「……あつい」。 雨が降りしきる真夏のアスファルトの上を、霊幻と共に這うように進んでいる。「おい、モブー。おでんならオレサマがおごってやるぞー……」と呻く雇い主に一瞥もやらず、「ナマエとダチョウ倶楽部でもやるつもりですか」と同じように低く呻いた。
五分前のことだ。暑さに耐えかねた霊幻は「『買い出し一発勝ーーーーッ負』!」と拳を振り上げた。溶けるように机に突っ伏していた彼の脳みそは十分に溶けきっていたらしい。勝負だなどと大袈裟な言葉だが、その内容はジャンケンの一発勝負。三人中何人が負けようと負けた人間がこの炎天下の中コンビニまで買い出しに出るという、ただそれだけのことだった。「アイコなら?」と指を鳴らすナマエに、霊幻は「その場合は三人で、だな」とニヤリと笑ってみせた。 夏というのは恐ろしい。平常の霊幻ならば、このような面倒くさいことを運否天賦にかけたりはしない。執拗に計画を立て、一見公平に見えるが決して自分は損をしない。そんな風に、決めたはずだ。 しかし、「よっしゃー、いくぞ? さいしょはグー! じゃんけん――」。 今日はすっかりと、脳が溶けていた。
「あ、どうせあのおっさんのおごりなんだから、ハーゲンにしておけばよかった」
結果はナマエの一人勝ち。彼女のここぞという時の勝負強さを知っていたモブは、諦めたようにチョキの形のままの手を揺らしコンビニへ向かっていった。 けれど暑さと雨に耐えながらの外出も好ましくないが、こうしてソファで転がっているだけというのにも中々辛いものがある。元来から活発な性質の少女は読み終えたジャンプをパラパラとめくり、それから時計に目をやる。あと十数分は戻ってこないだろう。
ナマエは待つことが嫌いだった。 意味のない焦燥と不安に、らしくなく泣いてしまいそうになるから。
「……退屈。私も、ついていけばよかったかしら」
しかし小さなあくびをしてソファに丸くなる少女に、そんな心の揺れは見られない。
「はやく、帰ってきなさいよ」
騒ぐ蝉も心もとない雨の音も、穏やかな気持を崩すことはなかった。 セーラー服は汗を吸って重たいし、自慢の黒髪さえ今日は邪魔に思える。貴重な中学二年生の夏休みをこうやって怠惰に潰して、茹だるほど暑いここで待っていても、食べられるのは溶けかけで安物のアイスだけ。 それでも、それでも。
「(ま……こんな夏も、満更じゃないわ)」
END
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