薄青色のブラインドを下ろせば、氷が砕けるよりしなやかな音が耳を抜けた。容赦なく日差しが照りつける大通りと建物で遮られた陰ではまるで世界が違っているようだ。風通しばかり良い部屋で、書類が飛び立ちそうなのを手で押さえた。
 夜が明けて数時間、まだイタリアの街は夢にさ迷う。日曜日に働くのはよほどの低所得かまっとうでない人間に違いない、と嘲笑うのは誰だったか。手をかけた記憶なら腐るほどあるのだが。

 ――――コチ、コチ、コチ

 静穏に足音をつける秒針に合わせ、ごく体重の軽い小動物が地面を歩くような音がした。着地するのは踵ではなくつま先。けれど本気で気配を消す野生動物というよりは、まるで気付いてほしいとばかりに床を鳴らす。
 少し遠くでドアノブを開いて、すぐ落胆したように閉められる。何度も繰り返しながら近付いてくる頼りない音。小さなシマリスの探し物は恐らく、ここにしかない。

 右手にある白木にペンキ塗りの扉は、つい昨日短気な部下が“気に入っていたスニーカーについた泥汚れをクリーニングに出したのに取れていなかった”と喚きながら報告に来たときに力任せに蹴ったせいで、蝶番の調子が悪くなっていた。その証拠に向こう側からドアノブを回しても、一向に開かない。それこそギアッチョのような勢いで蹴らない限りは。
 戸惑った小さい声が聞こえたので、書類に文鎮代わりにペンを置いて立ち上がる。

「ベアトリーチェ、下あたりを蹴れ」
「え……っ?」

 一度躊躇ったのか、コツンと情けない音と共に扉がほんの数ミリ動いた。もう一度蹴る。動きはするものの、一向に開く気配のない扉に業を煮やしてこちらから引っ張ったら、拍子抜けするほど簡単に開いた。
 きょとんと丸くなる黄緑色がかったヘーゼルの瞳が見上げてくる。一瞬同じように視線を返す、夜明け前に帰った時とは違うラフな格好のベアトリーチェを見た。

「もう寝るんじゃあなかったのか?まだ一時間も経っちゃいないぞ」
「それが、全然眠れなくて、暑くて本も、読んでられなくって……」
「やっぱり、南側の部屋は日当たりが良すぎる。遮光カーテンにしてやろうか?」
「う、ううん、あのアイボリーのカーテン、すき」

 インテリアにそれほど興味が無さそうな子供は、すぐに頭を横に振った。物置のようになっていた部屋からがらんと物が無くなり、晴れてベアトリーチェの部屋となった一番南側のボックスルーム。使っていないカーテンをとりあえずとかけてやったのだが、彼女は何故かそのまま使っている。
 隠れるようにアジトへ戻る道中、目立つベビーブロンドを隠すために露店で買った安物のキャスケット帽だってそうだ。サイズこそ変わらないがまだ持っているなんて、随分物持ちが良い。

「そうか。まぁ好きにしろ、日が落ちたら少しは涼しいだろう」
「う、うん……ここで本、読んでてもいい?」

 分厚い図鑑は小さな腕が持ったら大きく見える。本を読むのが好きなこの少女は、特に絵本や図鑑が好きなようだった。他にも絵を描くのも好きなようだ。
 頷いたら返ってくる締まりのない柔らかな笑顔や、羅列した要素は誰より子供らしいのに。


▲▼


 一時間あまり経った。
 黙々と仕事を進める自分と大人しくソファーで図鑑を眺めるベアトリーチェ。ボールペンが紙の上を引っ掻く音と規則正しい時計の音、たまにページをめくる音。乱れないリズムに、何故か作業が驚くほどはかどった。

(………静かだな)

 ふと音が止んだのを感じ、ソファーを見ると少女の姿が消えていた。おやと視線を下すと、机のすぐ横でベアトリーチェが膝を抱えている。隠れん坊で見つかったように首をすくめる様子を見て、気付かなかったことに僅かに恥じた。
 いつの間にか傍にいるということに関して、彼女の右にでるものはいないかもしれない。窺うようにくりりと上向きの丸い眼球の中で、微妙な表情をした自分が映り込んでいる。

「………どうした?」
「あの、」

 視線が不安げにあたりを見渡し、そろそろと戻して一歩だけ進んだ。稲穂に似たベビーブロンドが揺れる、一瞬の風の動き。泣きそうな鈴の音だった。

「く、くっついたりしたら、お仕事の邪魔になるっ?」

 言葉が終着に向かうにつれて、白いミルク色の頬が赤く色づいた。金魚が溺れるようにぱくぱくと小さな唇を震わせるのを、うっかり言葉を失って見つめる。
 やがて故郷シチリアの太陽をたっぷりと浴びた、真っ赤なトマトのようになったベアトリーチェが、小刻みに震えながらがばっと両手で顔を覆った。

「ごめ、ごめんなさ、……!うそ、ごめんなさい、忘れて………」
「…………ビーチェ」

 初めて会った日、ターゲットの部屋の隅で呆然と見上げてくる瞳。スタンド“マイ・ケミカル・ロマンス”で人の心を操る恐ろしい能力。それにまんまと嵌まってしまった時に、そう呼んだのを思い出した。ベアトリーチェ、永遠の淑女の名を縮めて、愛しさを込める崇拝の響き。今は、意味が違っている。
 両腕を広げた体勢を見て、顔をあげた少女は花のように顔を綻ばせた。飛び込んでくる体温は熱いくらいだ。腹のあたりに額を擦りつけるようにして、小鳥の鳴き声に似た呟きが聞こえた。

「ほんとはね、今日帰ったときから、ずっとこうしたかったの」


子供の死体


 その少女が子供らしさを見せる度に、安らぎを感じる自分がひどく憎らしいくせに、結局腕を離すことができないのだ。





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