朝の9時30分過ぎ。
今日は機嫌が悪いのか、愛しの太陽は分厚いベールに隠れて姿を見せない。そのせいか日中にも関わらず空は薄暗く、明けたばかりの朝のようでもあったし、しかし暑さは真昼のようでもあった。今を的確に言い表す言葉が見つからず、イラついてさらにアクセルを踏み込む。
アルファロメオといえば馬鹿馬鹿しいほど足が速いことで有名だ。整備に金がかかりそうだが、レースカーのような抜群の加速性と軽薄な赤色をギアッチョは割と気に入っていた。
「涼しー」
「そォかよ」
後部座席でベアトリーチェのキャスケットから覗く髪が、風を受けて機嫌良さげに靡いている。太陽よりも明るいブロンドカラー。光をはらむ黄緑がかったヘーゼル。曇り空にその色があるだけで、ミラー越しの景色は何となく鮮やかになった。
フィレンツェの中心街にさしかかって、鼻をくすぐるピッツァの香りが小腹の空きを知らせてくる。もう一度ミラー越しにベアトリーチェを見ると、白地に細かなドット柄のブラウスは一瞬何かと重なるがすぐに忘れてしまった。思い出せそうで思い出せない。
ギアッチョがまたもイラついて革張りのオーディオを殴ると後ろで少女の薄い肩がはねた。ラジオの電波はざらつき、拳の痛みでか頭が冴えてくる。ああそうか。
「バニラビーンズだ」
「?バニラフレーバーのこと?」
「分かれば話は早いぜ、ジェラテリアだジェラテリア!お前よォ、仕事の後はサッパリしたもん食いてえか?それともがっつり食いてえか?」
「う〜ん、がっつり食べたいかも。そういえば、お腹減った……」
自分もそう思っていたなんてことはいちいち口に出したりしなかった。こんな時間にジェラートなんて贅沢、と笑う声は別段不愉快ではない。ジェラテリアならいくつかアテがあるが、濃厚系ならヴェネタがいいだろう。
レプッブリカ広場から東へまっすぐ、サンタ・クローチェ教会の北東にあるベッカリア広場を目指す。確か隣には映画館があったか。どうせ暇なのだから観に行ってもいいのだが、特に期待しているフィルムもなかった。
腹の虫がアクセルを急かす。
「速い速い!競争してるみたい」
「スピードしか取り柄がねえんだから当然だろォが。日本車とかドイツ車に比べりゃあ、すぐ故障しやがるし燃費が悪い上に排気音は雷みてえだしよ!欠陥もいいところだぜッ!」
「えええ?じゃあ何で買ったの!?」
「見た目。あと買ったんじゃあねえ、盗難車だ!」
「納得したーッ」
風の音に負けないよう大声で馬鹿な会話をする。そういえば普段あの慎ましやかにしている唇がこうも大きく開くのを初めて見た気がした。
ベッドの上でシーツの海に溺れることもなく、また堅い膝に手を這わせることもなく、かといって大枚をはたいて傅くこともない。
この子供が無垢な瞳をくりくりさせて首を傾げるだけで、文字通りターゲットは「天に昇る」というわけだ。自分が彼女と居場所を同じくして毒牙にかけられないことが幸運だとギアッチョは至ってまじめに思った。
「ほれ着いたぜ。ポリ公が来る前にさっさとずらかンぞ」
「車、置いてっていいの?」
「良いんだよ、帰りはどうにでもなるっつーの!それより腹減ってんだよ俺はォッ!」
スニーカーの裏で車のナンバープレートを蹴りだした俺を見てベアトリーチェはぴゃっとシートから降りた。折れた鉄板はアスファルトに少しばかり傷を付けて視界からも消えていく。
キーもエンジンも機能しなくなったころ、尻尾を丸めて飛びだしたシマリスの姿が見えないことにふと気付く。赤い車体にもう一度足跡をつけながらきょろりとあたりを見渡すと、いつのまに買ったのかベンチで小さな口がパニーノを頬張っていた。
「金持ってたンか、お前」
「ギアッチョと組む前もけっこうお仕事してたんだから。リストランテの高いお肉もいいけど、これも美味しいよね〜」
「ランプレドット(もつ煮込み)なんか食って腹一杯になるんじゃあねえのか?お前の腹が裂けよーと俺はジェラート食うって決めてんだぜッ」
「余裕だってば、行こ行こ!」
結果として、ベアトリーチェは見目にそぐわず大食らいだった。男でも満腹になる量のパニーノをぺろりと平らげておいて、今度はマルゲリータの香りにすんすんと物欲しそうに鼻を鳴らす。しぐさはやはり小動物じみているのに、とギアッチョはポケットに両手をねじこんだ。
「お店どこにあるの?」
「住所は言えねえな、穴場ってのは知られてないから穴場っつーんだ。味は保証付きだって言っとくぜ」
「じゃあ、ワクワクしながら着いてく」
ふわりと笑うのはもう止めてしまったのか。レンズ越しの眩しさに彼が眉を寄せても、もう少女の目は憂いを含まない。
こんな小さな腹を満腹にできないほど、金に困ってはいないつもりだ。けっと先に歩きだした歩幅はいつもより心なしか狭かった。
ピスタチオとチョコレート
露店の食い物を次々と消費するリトル・ビーストに財布の中身を心配するはめになるのはまた別の話。
可愛いふりしてあの子はわりと大食い。
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