可哀想な男だった。
 その素晴らしい功績が大々的に報じられればメディアはこぞって取材をしたがり、南イタリアにおける彼の影響度は計り知れなかった。直接的な行いに非があったわけでもなく、また彼自身も全く非の打ちどころのないほど誠実な人物だ。しかし眩しく光るものは影を作り、その日陰からは疎まれる。ただ一つだけ非を挙げるとするならば、彼は運が悪かったのだろう。
 今から彼は殺される。若くして議員になった聡明な青年は、糞尿の詰まったただの肉となるために床に膝をつく。矜持も体裁も捨てて、額を柔らかな膝に乗せて少年のように笑う。テストでいい点を取って母親に答案を見せるような、どこか自慢げな表情で。

「ベアトリーチェ……」

 名前を呼ばれた少女は何を求められているのかすぐにわかって、自身の膝に縋りつく男の耳と頬を優しく撫でた。泣きだしてしまいそうな目が、降り注ぐ陽の光に透けるブロンドをゆっくりと見上げる。彼女の顔すらもだんだんと視界でぼやけてくるのを、男は感じていた。
 スーツの裾部分は捲られていて、柔らかい皮膚に小さな青紫色の斑点がある。右手の傍には小さな注射器が転がっており、彼が自身の脇腹に何らかの薬液を投与したであろうことは一目瞭然だった。男がその作用によって色を失い、ゆっくりと呼吸を細くしていくのを、少女はただ見守っている。

「少し、寒いな……」
「雪が降ってるよ、たくさん」
「本当?この街も少しはきれいになるかも、しれないなぁ」
「寒いねぇ」
「ああ……」

 寒いよ、母さん。
 それっきり声を発することのなくなった男の短い髪を、白い手が優しく撫でる。覚めることのない眠りに落ちた男の身体は重く彼女の膝にのしかかり、ベアトリーチェはそこから抜け出せないことに気がついた。しかし部屋はとても寒く、男はまだ暖かい。だから動く気にはなれなくて、少女は外に降り積もる雪をただじっと見つめている。ふと、ママが死んでしまったのもこんな日だったなと思い出したが、それだけだった。


▲▼


 エリートにはマザコンが多い。
 それはメローネ独自の推測だったが、それほど的外れでもないと彼は思っていた。高学歴で理想の人生を送っているように見える男は、母親の敷いたレールに従うことに抵抗のなかった人間なのだ。それゆえに母親への承認がないと生きてはいけないし、失えば恋しさもひとしおだろう。愚かにも「街の洗浄」を掲げたその年若い議員には、少なくとも完璧に当てはまっていた。
 もっとも母親役とするには彼女は若すぎるが、そんなものは「マイ・ケミカル・ロマンス」の前では実に些細な問題だ。メローネはベアトリーチェよりも一時間遅れでホテルのスイートルームに向かい、ドアを開けた先にあった光景があまりにも想像通りで笑ってしまいそうになった。

「首尾は上々かい?」
「せんせい」

 膝に死体を乗せたままソファに腰掛けていた少女は、窓から視線を外してメローネを振り返った。彼は手袋をしている方の手で男の襟首を掴み、その細腕からは想像もつかない力で無造作に床に放り出す。蝋のように白くなったその顔をメローネは一瞬だけ忌々しそうに見たが、ベアトリーチェに向けたときにはいつも通り飄々と笑う彼に戻っていた。
 彼はどこかぼうっとしている少女の手を引いて立たせ、皺になったスカートを軽く払ってやる。細く吐かれた息は白く濁り、暖房のついていない部屋がとても寒いということにメローネはやっと気付いた。

「寒かっただろ?おいで、ベアトリーチェ」
「うん……」

 手を繋いで部屋を出る。何度か折り目正しい制服を着たホテルマンとすれ違ったが、バーバリーの上品なトレンチコートを着込んだ男と同ブランドのチェックスカートを履いた少女は堂々とその横をすり抜けた。整った見目とハイブランドの服装は人を信頼させる効果もある。似た色のブロンドヘアーの二人は育ちのいい兄妹にでも見えたことだろう。
 明日の朝、チェックアウト時間を過ぎても出てこない客を呼びに来たホテルマンによって遺体は発見される。その頃にはもう全ての根回しが済んでいて、彼は自殺と判断されるに違いない。

「ああ、ンで任務は滞りなく終わった……あ?ンー、ちょっと呆けてるな。戻るまでにはなんとかしとくさ……了解、じゃ」
「……リーダー?」
「お姫様の調子はどうかって」

 稲穂のような睫毛を瞬かせて、ベアトリーチェはことりと首を傾げる。自身の様子が可笑しい自覚は全くなかったらしい。外はまだしんしんと雪が降っていて、彼らの乗り込んだ黒いアウディにもかなり積もり始めていた。天から降り注ぐそれにまた視線を奪われた少女は、次第に重くなる瞼を擦った。メローネは後ろに積んでいた大判のマフラーをブランケットのようにベアトリーチェにかけてやると、抵抗もなく子供は瞳を閉じる。
 キーを回すと冷えたエンジンが嘶いた。特にトラブルもなくスムーズにホテルの駐車場を出ると、表通りでアクセルを踏み込んで加速する。雪に音を吸い込まれた街は、いつも見せる顔とは少し違った空気がある。滑らないよう慎重に信号で一旦停止すると、ベアトリーチェがぽつりと呟いた。

「わたしのママね、すごく美人なんだよ。いつもきれいで、いい匂いがしてた……」
「へえ?若い頃はモテたんだろうな」
「うん。ママ、元気かな……」

 寝ぼけ半分の言葉に、メローネは返事を返さなかった。ベアトリーチェの母親がピエモンテ州にある墓場で眠っていることを彼は知っていたし、彼女は返事を必要としてはいないように思ったからだ。美しい棺に納められた美しい母親。美しい記憶。しかし全てを置き去りにして、彼女は今ここにある。
 未だ幼い娘がこんな汚れ仕事を生業にしていると知ったら、彼女の母親は悲しむだろうか。しかし雪に埋もれた暖かな思い出のように、それは元には決して戻れないものだ。組織から抜けるということは生半可なことではないし、この少女は既に普通の子供とは言えない感覚を持ってしまっている。テストで悪い点を取ってしまった子供のような顔をする、ベアトリーチェの前髪を男は軽く撫でた。

「お前のママは怒らないさ。なんたって死人は何も感じないし、何も言わないからな」
「そうなの……?」
「そうに決まってる」

 正確に言うならば死人が何を思っていようが、生きている者には関係がない。興味もなかった。男は自身の口ぶりにどこか必死さを帯びていることに気付き、ハッと息を飲む。隣のベアトリーチェはいつの間にか目を開いていたのだ。
 少女は安堵したような微笑む。
 メローネは言葉を失い、青に変わった信号を見て咄嗟にハンドルを切った。動き出したアウディのエンジン音とは裏腹に、タイヤが雪を踏んで鳴る、きしきし、という音のせいで妙に肌寒く感じる。目を閉じて眠ってしまった少女と雪は、なんだか静かな嘘のようだった。







 




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