腕時計の針が狂うことなく時を刻んでいく、深夜26時56分。
 誰も起きていないうら寂しさは遠く、息づき蠢いている呼吸の数が、現実味を帯びて脳をつつく。改めてとんでもないところに来たのだと、ペッシはプロシュートと名乗った男の背中を追いながら考えた。

 「ペッシ」と呼ばれたら振り返らなくてはならない、それが一番最初に言われたお達しだった。この世界においての識別番号には、個人の情報が含まれない。
 他のメンバーの名前を聞いても、プロシュート(生ハム)やホルマジオ(チーズ)、リーダーがリゾット・ネェロ(イカスミリゾット)……このチームだけでコース料理ができそうだ。
 自分の名前がPesce(魚料理)なのは、既に能力が知られていることに他ならない。確かに隠し立てできるような能力ではないが、暗殺チームに知られているなんて生きた心地がしなかった。

「あっちの南側のルームが、今日のお前の先輩だ」
「先輩、ですかい」
「ウチの紅一点だぜ」

 紅一点という言葉に少しだけ肩の力が入ったのを、プロシュートは見咎めた後に歯を見せて笑った。暗殺チームに所属する女なんてどんな恐ろしい能力で、残虐な性格をしているか分からないと考えたのが、露骨に顔に出ていたらしい。
 プロシュートはそれ以上なにも言わず、慣れたようにドアをノックする。

「ベアトリーチェ」
「……はぁい」

 返ってきた声の幼さに目を丸くして、思考が追い付くまでの数秒も間に合わない。軋んだ扉の奥に見えた小さなシルエットに、驚愕に口をあけて呆けてしまって、それから素っ頓狂な声を上げてしまったのだった。



▲▼



 パッショーネに入団してから、暗殺チームに配属が決定するまでは早かった。元々うだつの上がらないチンピラだったが、持っている能力だけは最も暗殺に適しているといっても過言ではなかった。
 無作法で学もない、未来もない、自分が行きつく先など、ここが最後のように思えた。それはほとんど諦めと言い換えてもいい選択だったのだけれど。

 けれどこの少女には、他に選択肢はなかったのだろうか?

「ペッシ?」
「へ、へいっ!」
「そんな緊張しなくて、いいのに……」

 余計なことを考えてぼうっとしていたペッシに、少しだけ困ったように眉を下げて、光が当たると黄緑にも見えるヘーゼルの瞳が細まった。キャスケット帽からのぞく明るい金髪は幼く、本屋の袋を持った風体は、学校に通う単なる少女にしか見えない。
 しかしベアトリーチェは、自分よりも前に暗殺チームだなんて、世界一似合わないようなものに所属している。

「疲れてない?」
「は……た、体力だけは自信ありますぜ」
「ほんと?いいなぁ」

 どうやら体力に自信はないらしい。年齢ゆえに誰かの上になることなどないのだろう。自分に敬語を使う大柄な後輩にくすぐったそうに口元を両手で覆ったあと、ふつうでいいよと"紅一点"は笑った。
 この少女はいったい、どんな恐ろしい能力を持っているのだろうか。それを聞いてはならないと教わったし、どうせ答えてはもらえまい。

「これから、ドコに?」
「えっとね」

 もうすぐ。そう言ってトレッキングブーツが人通りの少ない方へ行く。路地裏の薄暗い道で、少女は紙袋の中から小さな双眼鏡を取り出す。ペッシが継いで手渡されたそれを覗くと、くたびれたスーツを着た男が一人立っていた。ペッシがターゲットを確認してから、ベアトリーチェが作戦を説明する。

「あの人のね、持ってるディスクにペッシの針をひっかけて。上の部屋は空きになってるから、窓からこっそり……スタンドは、持ってないから、釣り竿だけなら出してもバレないよ」
「引っかける?そのまま釣り上げちまっていいんですかい」
「ううん、えっと……わたしがその人と別れて、射程距離ギリギリになったら、どこにあるかは合図するからね」

 小さく微笑むベアトリーチェから鍵を受け取り、二人は別れる。できるだけ急いで、しかし派手に音は立てないように注意を払いながらドアの前に立つ。鍵を取り落としそうになって、ひっと小さく声が漏れた。情けない。
 空き部屋は閑散としていた。靴裏を鳴らさないようにゆっくりと窓に近づくと、微かに会話が聞こえてくる。

「ベアトリーチェ!平気か?こんなところで待ち合わせなんて………」
「うん、ちゃんと誰にも内緒できたんだよ」
「ああ、いい子だ」

 男は鋭い目を驚くほど緩めて、まるで最愛の恋人にするような、或いは溺愛する愛娘にするような甘ったるい声で、小さな身体を感極まったように思い切り抱きしめた。
 思わず一瞬目を逸らしそうになって、ぐっと身体に力を入れる。どう見てもミスマッチな二人が、こんな一目につかないところで抱き合っている場面に、ひどく後ろめたさを覚えた。

「ガレも、ひみつで来た?」
「もちろん、誰にも邪魔されるわけにゃあいかない」
「くすぐったい」

 恥ずかしそうに身を縮める少女の首筋に、男は鼻先を埋めてその甘い香りを肺いっぱいに吸い込んでいる。
 ガレ、という名前には聞き覚えがあった。南イタリアで幅を利かせていると最近騒がしい、あるファミリーの幹部の男。くたびれたスーツはただの変装のようで、よくよく見れば腕の時計は似つかわしくないロレックスだ。

(油断させる、のがあの子の仕事?)

 二人にはどこにも淫猥な雰囲気はなく、昔からの親愛出結ばれてさえいるようなやりとりだ。確かにまだ幼さの目立つ少女なら、囮には最適かもしれないが。
 食い入るように二人のやり取りを見ていると、ベアトリーチェが不意に両手で右胸をおさえるような仕草をした。男はそれを可笑しそうに笑う。ただ父親に甘えるような表情の中に、自分への合図があると気づく。

「(ビーチ・ボーイッ!)」

 男の右胸のポケットにある固いものに、ビーチボーイの釣り針がしっかりと刺さった。
 暫し親しげにいくつか言葉を交わし、名残惜しげにする男の頭を小さな手がおそるおそると撫でる。男はとたんにだらしなく表情をとろけさせ、そっと体を離した。

 ベアトリーチェは男が見えなくなるまで、ずっと手を振っていた。革靴の音が路地裏をくぐり、大通りに紛れ、そして命よりも大事にすべきディスクを失ったと気づかないまま消えていったのだった。


▲▼


「どうだった、ミニガールとの初仕事は?」
「案外、簡単に終わりやした……」
「アイツとの仕事は特別楽なんだよ、お前の能力もやりやすいからなァ」

 しっかりとディスクを手に入れた自分に、あの少女は大袈裟に拍手をして褒めたたえた。嬉しそうに笑って任務の成功を祝い、余った時間を市場を寄り道しながら帰ってきた。
 これが暗殺チームの仕事かと、それは疑問に思うほど穏やかに終わってしまって。

「オイラが言うのもヘンかもしれねェんですが、」
「ン?」
「ベアトリーチェには向いてない気が……」

 きっと今回の任務が特殊だったのだろう。あのまるで天使のような少女が銃やナイフ、もしくは何かスタンドによる攻撃で誰かを殺害するシーンなど想像がつかなかった。
 ペッシの考えをすべて読みとったように、プロシュートは含みを持たせて笑う。くわえていた煙草の先をこちらに向けて。

「筋書きは重要な取引内容を書いたディスクを、女に会いに行って紛失しやがった間抜けだ」
「へ?」
「ポカしやがった野郎は、今頃穴だらけになって湾に浮かんでるだろうぜ。もっともその"愛の逢瀬"にあらがえる奴は、この世に存在しない」

 たとえば彼女が会いたいと電話を一本。たとえば彼女が寂しいと涙を一粒。たとえば彼女が嬉しいと笑顔を一つ。

 そのために命を落とす人間が、このイタリアには腐るほど存在する。

「ベアトリーチェが人を殺すのに、凶器は必要ねェのさ」

 窓際に置かれた安物のブリキ灰皿が、風にふかれてカタカタと揺れる。悪魔は残酷さを玩具にして遊ぶのではなく、それが残酷だと思わずに手段とする。無垢な笑顔に疑いようがないのは、彼女が本当に悪であるとは思っていないからだ。
 天使も悪魔も変わらないのか。
 一人分の命が詰まったそのディスクをプロシュートに手渡しながら、そんなことをぼんやりと思った。








 



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