その街で一番良い宿は、大体SBRレース上位者が占めている。何らかの特権というより単純に早く来た者が良い部屋を順々に取っていくので、自然とそういう風になるのだ。金が無い場合その限りではないが。 しかし良くて50位、悪ければ100位という成績のショコラ・ジスターがこんな良い宿に居るのは理由がある。 ディエゴ・ブランドーがいつも二つ部屋を取るからだ。 (ちなみに彼らが同じ部屋に泊まったことはまだ無い) そんな、穏やかな夜のこと。 「これならどうだ?」 「可能な限り発動しない」とは言ったものの、やはりせっかく手に入れた能力を使わないのは惜しいというもので。 一応、もしかしたらという願いをこめて、ディエゴは身体能力が上がる程度に恐竜化を留めてみる。 耳まで届かんばかりに裂けた口も、端に貼り付けたテープのおかげで見た目のグロテスクさを随分軽減していた。 「……大丈夫かも」 むしろちょっと可愛らしくもある、なんて。 ショコラはトカゲという形状が苦手なのであって、ほぼ人間の面影を崩さない今の姿は恐怖の対象にはならないらしい。 ディエゴは不意にクンクンと鼻を鳴らす。 「……ヘンな匂いでもする?」 「いいや。ショコラ、ジンジャーエール好きなのか?」 「えっすごい!ワリーとアーティーの昔馴染みが新しいお店を出したっていうから、飲みに行ったの……恐竜って鼻がいいのね」 オリーブ色が輝くのを見て、ディエゴは内心ガッツポーズをした。初めて好感触の反応が返ってきたのだ、少しずつ慣らしていけば恐竜(正確にはトカゲ)嫌いが克服できるかもしれない……。 そんなことを考えていると、近付いたショコラが好奇心いっぱいの顔で彼を覗きこんでいた。思ったよりも縮まった距離に心臓が跳ねる。 「ね、他にはどんな匂いがする?」 「あとはそうだな……」 近い分よく分かるはずと集中したのがまずかった。 ラズベリーやローズヒップ、オレンジとマリーゴールドの花、果実と花の芳醇で甘酸っぱい香りが石鹸のさわやかさの中でかすかにその存在を主張する。 シャワールームで髪を洗う彼女の姿。柔らかな手で豊かなブロンドをすくい、気だるげな表情で泡立てる仕草。その想像のシルエットが頭の中に駆け巡り、ディエゴは唇を噛み締めるだけでは足りず、思わず口元を押さえる。 「……石鹸、の、香りだ。ラズベリーの……」 「大正解!昨日新しく買った石鹸、いい匂いでしょ?」 「……かなりな……」 「んふふ、恐竜さんが気にいったなら愛用しようかなァ」 「ッ……」 悪戯っぽく笑ったショコラのあまりの愛らしさに、称賛の言葉すらも喉でからまった。 この場合はもう、勢いだ。 背中に回る感触が何であるか気付いたショコラは驚きに身体を固くする。小さな肢体をぎゅうぎゅうと抱きしめる2本の腕。両腕を外に出す余裕もないくらいに密着している状況だった。 「ディエゴ?」 「……すごくいい香りだ、本当に」 「それは良かったけど、苦しい……」 「あともう少しだけだ、構わないだろ?」 「……ン〜……?」 ほんのりと頬を染めて不満そうに口をとがらせながら、諦めたのかふっと力を抜く。嫌がっているならすぐに蹴っ飛ばしているはずだから……それをいいことにディエゴはさらにショコラを抱き込んで、見事なストロベリーブロンドに顔を埋める。 深呼吸すれば甘い香りが肺いっぱいに彼女を感じさせて、本当にたまらない。 「…………」 「…………」 「……ッあ〜〜!!もうダメ恥ずかしい!離してったらァ!!」 「いいじゃあないか、ケチ。減るもんじゃないだろ?」 「こォんの、誰がケチよッ!離せカナヘビ野郎〜〜ッ!!イモリ!エリマキトカゲッ!!」 「誰がトカゲだ、恐竜だと言ってるだろーが!」 じたじたと暴れるショコラを押さえようとするディエゴも意地だ。さすがのじゃじゃ馬も動きを封じられては野蛮な拳も武器も出てこない。 負けず嫌いは最後の手段とダイナマイトを取り出そうとしたが、ふとかち合った彼があんまり楽しそうに歯を見せているから。 「……ディエゴ、前より意地悪になった」 「残念ながら、本来の俺はこういう人間なんでな」 「……まぁでも今の方が―――」 続きが声になる前に、恐竜のしっぽが期待に空を切った。彼女はそれを見て内心ニンマリと笑いながら、わざと不機嫌そうな顔をつくって言葉の飲み込んでしまう。 ディエゴはあわててショコラの肩をつかんだ。 「何だ?今の方が?」 「アタシ、ケチだから言わない」 「分かった……俺の負けでいい。頼むからその先を言ってくれ」 「イ・ヤ」 それで、お気づきかしら。あなたもう私の射程距離内よ。 やがて彼女が笑いだしてしまうまで、彼の涙ぐましい交渉は宿に響き渡っていた。 ご機嫌いかがスイートパイ 「好き」と一言いってほしいディエゴ。 Back |