マルコ・ロッシは北イタリアの裕福な家庭に誕生した。
 「マルコ坊や」と可愛がられて育ったハンサムな青年は、社交的な性格を活かしビジネスマンとして成功する―――などと、フィクションの登場人物にしては全くもって物足りない、ごくありふれた人生を送っていると誰もが思う男であった。
 しかしそれは彼の表面上の印象をなぞっただけの話で、社交性は実際のところ孤独を避けるための気違いじみた努力の結果であるし、重度のストーカー気質であるこの男は、二ヶ月前追い回していたある女性を交通事故に見せかけ殺害している。

「………」

 月の光さえ届かない路地裏には、表通りに面する病院の裏口がある。事故の際鎖骨と大腿骨を骨折したマルコが通院している病院だった。
 ドアと枠の隙間にバールを差し込み、デッドボルトに目掛けて思い切り力を入れる。鍵を破ることはできずとも、本体の強度が弱ければたいていのドアはこじ開けられる。決して大がかりな作業ではない。それに、男は手馴れているようだった。

 扉は招かれざる客を拒めない。

 少しばかり暗闇を見渡したあと、男は口元を緩めて工具を揺らした。扉をいくつも破りながら、あの折れそうな腕の感触を思い出すだけで、眼球が躍り出すように目蓋で転がった。
 美しい女医は強い力で握られた手を一瞥し、冷静に「離していただけますか」と言うだけだった。甘い言葉を投げかけても靡かず、それどころか心の隙間さえ見せず、ただマルコを患者の一人として扱う。彼にはそれが酷く不満だった。

 彼女は荒らされた自分の医務室を見て、どんな顔をするのだろうか。次の診察のとき、犯人が自分だと知ったら、という想像だけで笑い転げたいほどの愉悦を感じる。


 荒い呼吸を整えながら手を伸ばす。
 と、同時。

 ひやりと冷たい何かが、男の項をざわめかせる。
 それは触れていないが、それは邪悪で無慈悲で、陰惨な美しさを含んだ蜜のように甘い。血も涙もない悪魔のように無感動で、それでいて轟々と人らしい憎悪の火を燃えたぎらせているのだと、



「虫けらが私のものに手を出すとは」


 
 死の淵にのぞむ寸前に男は悟ったのだ。



 ――――以上、全ては余談。



▲▼




 人間と吸血鬼。
 太陽の元に生命の営みをする生き物と、それの対局に生きる身。お互いの活動時間が大いにずれていることもわかっている。だから、シーツの海に身を投げる瞬間だけは共有すべきなのだ。
 真黒な髪と共に散らばる、清潔な石鹸と、果物と花々を一緒に籠に詰めたような、柔らかな香りを好んでいた。とはいえそれは人間にはほんの微かなもので、形容するならば殆ど「無臭」と言っても良い。白衣に馴染んだ消毒液のツンとした匂いのほうが、よっぽど目立つのだから。
 それでも生え際に鼻腔を近づければ肺まで満たすことができることを、知るのはこの世に私だけでいい。


 この女はわざわざ背を向けて夢の世界に一人旅立とうとする。ネコジャラシを振れば興味なさげに尻尾で床を叩く、あの動物も同然。眠れない時は泣きついてくるくせにと、言えば睨まれるだろうが。
 毎夜のこと。細い腰と右腕を掴んで身体を寄せようとすると、ポーカーフェイスは相変わらずだが、一瞬だけ筋肉が跳ねたのに気付いた。動揺したのだとすぐ分かる。人間の身体は、思うより正直なのだ。
 少し春の気配が前髪を撫でるとはいえ、まだ袖をまくって歩く者はいない。だから発見は今の今まで先延ばしになった。


「……男だな」
「ん………」
「誰にやられた?」
「患者の、人」


 まるで最初から怒られることが分かっていた子供のような目で、瞬きで視線を逸らすエメラルドを敢えて追求はしなかった。染みひとつない白磁の肌に、それは忌々しいほど映える。
 自分の手より一回り小さい手形。
 よっぽど強い力で掴まれたのだろう。痣になった誰かの痕跡は、それほど時間が経ってはいまい。舌打ちを零すと、また腕はぴくりと跳ねた。


「昭子」
「嫌」
「昭子、おいで」
「…………、」


 泉を湛えた翠玉が揺れる。体を沈めるベッドのように、包むシーツのように、あるいは香りのように、思いのほか降る声は柔い。息を呑んだままの彼女を引き寄せ、肉体のあらゆる隙間を埋めるように抱きしめる。
 猫が警戒を解いて毛を柔らかくし、小さな声で鳴く。頭の形を確かめるように撫でたら、それが皮切りになったようだった。


「少し前から変だった、勘違いじゃないとは思ってたけど、心当たりがあるわけじゃ、ないし」
「ああ」
「腕、掴まれて、"この人だったんだ"って、思ったの……」
「……出せ」
「……」
「腕だ」


 すっかり脅えている。仕草や表情の一つをとっても微妙な変化ながら、分かってしまう。毎日見ているのだから当然だろう。その要因を作ったのが誰かということを考えると、腹の奥ではぐらぐらと熱を持った業火が燃えている。

 それは貴様には必要がない。

 歯噛みする音さえ聞かせないように薄く口を開けば、舌に纏わりつく唾液がランプの光を照り返した。何をするのかと見上げてくる目蓋に唇を落とせば、昭子は再び呼吸を始める。差し出された腕を慰めるように、ゆっくりと舌を這わせた。
 そして死なぬ身となった吸血鬼の舌先は、まるで何事もなかったかのようにそれを消し去る。


「………ディ、」
「ああ、もっと名前を呼べ」
「DIO、DIO!」


 次の瞬間、シーツに縫い付けられているのは、あろうことか私だった。
 弾かれたように両腕を首に伸ばしてきた昭子は、そのままの勢いで胸の上に乗っかっている。言葉で表現するつもりはないのか、出来なかったのか。どちらにせよ悪い気はしない。ただの滞りのない仕事は、頬や耳を滑る黒髪とどこか似ている。

 よもや魔法にでも見えたか。医者から見れば確かにそれは正しく魔法かもしれない。星屑を閉じ込めた宝石に憂いはなく、痣があった場所を眺めては感心の溜息をほうと落としていた。

「最近あんまり無かったけど、ここ2、3年で一番スゴイって思ったかも。あ、DIOに関してってことじゃないよ、全部ひっくるめてね」
「当然だ、もう感動がないとは言わせんぞ」
「うん、感動した」


 自らの持たざる力を持った、化け物の腹で寛ぐその度胸は買ってやってもいいだろう。昭子が顔を近づけて鼻先を当てれば、暖かな血の温度がしっかりと伝わる。
 僅か1cmという距離で、睫毛が震えて弧を描いた。もとより是正を人に依るつもりなどないが、やはり間違っていなかったらしいと記憶は確信に変わる。緩んだ頬を撫でてやれば素直にじゃれついた。それが証拠だろう。
 細まったエメラルド・グリーンの中では見知らぬ男のように笑う自分がいる。何年経ったところで、本当に己であるのかと信じ難いのに。


 そうだ、お前は何も懸念しなくても良い。ただこのDIOの側でそうして生きていればいいのだ。


「泣くな」
「泣、いてないつもり……」
「冷やす物はないぞ、お前は次の日の出までここを出ないのだから」
「出さないんでしょ、分かってる、冷やすものなら吸血鬼の指でいい。だから、ね」
「ああ」
「出さないって言ってね」



 その喉や瞳がどう物を言うのかも、これからのことも、全て俺の所為でしかない。





蚊帳の外








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