これは夢だ。
 首筋に冷たい汗が伝う感触も、乾いて嫌な音を立てる喉も無視して、頭はそう信じたがっている。空を見上げれば満天の星空が広がっているというのに、それを四角く囲んだ高い建物の影が、決して逃がさない塀のように見えた。
 冷たい石の壁。真昼の炎天下では熱を吸収する涼しいそれも、太陽の光がなければただただ底冷えしていくだけ。壁に手をつく。汗をかいている。暗闇で光る血よりも赤い光が「この世のものではない」とするならば、やはりこれは夢であってしかるべきだというのに。

「それで、どうする」

 箱庭に入れた動物が、決して外界へと逃れる術がないのに、逃げた気でいるのが可愛らしいと笑う、無邪気な子供のような声色だった。それでいて年輪を重ねよく磨かれたマホガニーの艶めきのような、どこまでも底のない響きだ。浮き上がるように白い、触ればさぞ滑らかであろう手指が、こちらに向かってくる。
 差し伸べられる手は、果たして悪魔の囁きか、神の無慈悲な一手か。

「ここでわたしの手を取れば、その恐怖は昇華する」

 それは、崇拝にだろうか。
 底から湧き上がるものを飲み込もうとすればするほど、喉の渇きは酷くなる。甘く深い毒が身体に絡みつくたび、身体はとても原始的な恐怖で涙を零した。人前でこれほど無様に泣くのはいつぶりだろう。嘔吐や失禁をしないだけ、まだ体の軸が生きていると言えるかもしれない。
 幸いにも、行き止まりというわけではない。闇に溶け込まぬはずの金色の目を盗み、自らを叱咤して駆け出した。早く。速く。全速力で。けれど普段走る時よりも数倍は早く足を動かしているのに、石の壁は全く動いていないように見える。だからこれは夢だと、まだ往生際悪く頭の隅で思った。

 無冠の王はやはり笑う。
 無邪気な子供のように息をつく。

(夢だ、夢だ、夢だ)

 自身の影に名を付けたのは子供の頃だった。逃げても逃げてもついてくる影。月と太陽もそれに似ている。風呂場で目を瞑って頭を流しているときに感じる気配のように、ほんの少し不気味で、決して他の誰にも口にしてはいけない友達だった。
 彼にはそれが見えるという。
 だから夢だと思った。頭の中で作り上げた幻想がはっきりと人前に姿を現すのはベッドで夢を見ているときだけだ。私は心の中を覗かれたようでちっとも嬉しくなかったし、同時に恐くもなった。足音は遥か遠くから聞こえてくるのに、まるで真上から空が迫っているような気さえする。エジプト、神秘に満ちた都。こんな悪夢なんて期待していなかった。はやく覚めて、覚めて、覚めて。

「ああ……」

 声を失って立ち尽くす。
 目の前に塞がった闇は、それはそれは鮮やかな金色。こんなものは知らない。間に合わなかった。逃げるのも、目を覚ますのもだ。硬直した身体を動かすことも敵わず、伸ばされた両手を振り払うほどの勇気もない。犬のように荒い息を繰り返す、私の汗ばんだ両頬に触れた掌はやはり滑らかで、驚くほど優しく包み込んだ。
 涙で滲んだ瞳でもよく分かる。"それ"の美しさは、詩人なら世界に存在するあらゆる称賛の言葉を浴びせようとも間に合わないと言ってもいい。女として、例えばそうならば、胸を高鳴らせても良かった。しかし心臓が破裂するほどの動悸は、引き寄せられた瞬間に悟った絶望への階段でしかない。地の底から黒々としたものが蛇のように絡みついて、足を骨ごと地面に縫い付けているようだった。

「苦しみなどない、全てを委ねればいいのだ。ただ只管にわたしの傍に在る、それだけでいい」

 深い深い安心を呼び起こすような声に、全身の力が抜けた。人格も人生も尊厳も放り出して縋りつきたいという欲望が、心の奥から泉のように湧き上がった。けれどどうしてか、生を諦めて横たわったとしても、服従して腹を見せる気にはどうしてもならない。
 顔を力なく横に振る。
 音もなく注がれたワインのように凪いだその瞳が、一転して冷たく光り、くびり殺されても仕方がないと思った。だが、彼はそうしない。その美しい右手だけをゆっくりと頬から外し、自身の顔を少しだけ隠すようにする。完璧に整えられた造形が、気のせいかほんの少しだけ歪んで見えた。彼が言葉を待っている気がしたから、処刑台へと昇るような気持ちで、ようやく唇を開く。

「私、できない……」

 こんな状況でよくそんな口が叩けるものだと嘲られてもいい。彼の言うことを鵜呑みにすることはやはりできない。やっと音を通した喉からは、酷く震えて掠れた、しかし寸分も恐怖で曇ってはいない声だった。
 だってこれは私のものだ。
 逃げられない檻に入れられて、これから圧倒的強者である一方に蹂躙されるだけの道しかない中、ひとつ吼えてみせられた。顔を上げたその奥では、星々が煌めいている。再び頬を包み込んだ手がいかに強大であっても、死の恐怖にさらされても、きっとそれが正しかったのに。彼の赤が揺れる。心臓は潰れて砕ける。嗚呼。

「何故信じてくれない?」

 私が目覚めることは終ぞなかった。


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