秘密が美しくするのは、女だけとは限らない。

「ねぇ、リゾット」

 秘密は親密を産み、時も、笑みも、関係も、そのエッセンスによって甘やかな色を帯びる。

「ナナシ」

 珍しく雨の振るリアルト橋の上。背伸びをする少女と、どうにか届くように背を屈めてやる長身の男。小さな顔が、男の頬に寄せられた。
 ナナシが口元を華奢な手で隠して一言二言何かを話すと、お返しとばかりに、リゾットも何かを耳打ちする。
 くすくすとマセた笑い声が雨とリゾットの鼓膜をくすぐった。
 鈴を転がしたようなそれに、誘われた男がもう一人。

「何の話だ? オレも混ぜてくれよ」

 いつものようにブランドもののスーツを着こなしたプロシュートだが、今日ばかりはいまいち決まらない。手にしているのがいかにも急ごしらえと言ったビニール傘だからだ。
 彼は形のいい眉を軽く持ち上げて、二人に歩み寄る。

「内緒の話ィ」

 そう言っていたずらっぽく微笑むナナシに、プロシュートはその安っぽいビニール傘を差し掛けてやった。
 その時は「一丁前な口聞きやがって」、と目を掛けている少女の成長を嬉しいような勿体無いような心持ちだったプロシュートだが、

「ギアッチョ、こっち」

 二度目と言うのは、面白くない。
 仕事を終えてようやくビールで一息つけると思っていた矢先だ。アジトの前の路地裏に、長い髪の少女と巻き髪の男が何かから逃げるように引っ込んでいった。
 どうせなにかを企むのなら自分のような男のほうが、共犯者としてはふさわしいだろうに。
 そんなことを考えながら、プロシュートは二人が隠れた路地裏を覗きこむ。唇がらしくなく拗ねたように曲がっていることは気付いていたが、どうしようもなかった。
 二人は、やけに神妙な顔をして顔を付きあわせている。声は、ここからでは聞こえない。
 プロシュートは、ますます唇が歪むのを感じた。

「……なァに、コソコソしてんだよ」

 つとめて平静を装いながら声をかける。
 ナナシは顔をあげて、それから朱色の唇にそっと人差し指を当てた。

「内緒の話ィ。おかえり、プロシュート」

 (それがなんなのか聞いてるんだ)。
 己が「いい男」だと自負しているプロシュートは、それ以上みっともなく取り乱して問い詰めることができない。
 その時の彼ははまだ、ナナシのくるりとした長い睫毛が別の男のこめかみを掠めることよりも、こんな小さな少女の言動に自分が一喜一憂している現状がたまらなかった。

「ギアッチョはいいヤツだが……あー、共犯者には向かねえんじゃあないのか」

 だからこそ、彼の口をついたのはそんな毒にも薬にもならないような言葉だった。
 明らかに目つきの座ったプロシュートを見上げて、ナナシは「いいんだよ、それで」と屈託なく笑う。
 ギアッチョは自分を置いて勝手なことを話す二人に怒鳴り散らすでもなく、呆れたように肩をすくめた。

 そしてついに、プロシュートの我慢は限界を越える。

「メローネ」

 少女の声は、最近とみに甘さを増した。媚びるというよりはどこか信頼を寄せたその声が、自分以外の名前を呼ぶのがプロシュートはどうにも面白くなかった。
 しかもキッチンのタイル張りの床に足を伸ばしたメローネに耳打ちするナナシの横顔は、ほんの一週間前とは比べ物にならないほど艶めいて見える。

「お、っと」

 プロシュートはプライドともに、手にしていた空のワイン瓶をシンクに叩きつける。
 その衝撃にナナシの視線は彼を捉えた。「あ」と小さな唇が、微かに歪む。
 先に目を合わせてしまったメローネは、巻き込まれるのはごめんだと言わんばかりにそそくさとその場を去る。ただプロシュートの隣を通り抜ける瞬間、「優しくしてやれよ?」とやけに意味ありげに顔を寄せた。

「メローネ、あのね――」

 少女は去りゆくメローネにまだ話がある様子で、急いで彼の後を追おうとする。
 しかしそれも叶わずに終わる。プロシュートが、ナナシが立ち上がるよりも早く冷蔵庫に手をついたからだ。覆いかぶさるように少女を見下ろし、彼は「また内緒の話か?」と皮肉げに笑ってみせる。
 ナナシは少しだけ考えるようにしてから、「そうだよ」と微笑んだ。

「あっ、あー……お嬢さん?」
「……プロシュート、すごい顔。怖いよ」

 (誰がさせてるんだ誰が!)。怒鳴り声の代わりに、歯ぎしりがナナシを叱責する。
 青筋の浮かんだ額と瞳孔の開ききった瞳は、普段のすました顔の暗殺者とも気だるげな兄貴分とも明らかに違っていた。
 その変わり様に少女は怯えたように瞳を揺らすが、それでも唇を尖らせて横を向く。ナナシの小癪な態度に、プロシュートの眉間には更に深い渓谷が刻まれた。 

「おいおい。俺ァ聞き分けのねえブロンドを気取るつもりはねえが、ダーティー・ハリーの一晩のお相手ほど秘密に寛容じゃあねえぜ。何のつもりだ? ン?」

 「今まで仲良くやってきたじゃあねえか」と続くはずの言葉は、ナナシの「だって!」という必死な声にかき消される。 

「あ?」
「だって、プロシュートが言ったんだよ。"大人の駆け引きができたらな"って!」
「なんのことだ?」
「忘れちゃったの!? 信じらんない!」

 責めていたはずがいつのまにやら叱られる立場に立っている。プロシュートは怒りも忘れ、どうにか機嫌を取ろうとナナシを優しく抱き上げた。
 いきなりやってきたこの小さな同僚を、彼はこの上なく大切に思っている。その大きな瞳に涙が浮かぶことをなによりも恐れていた。

「バンビーナ、頼むからオレに分かるように説明してくれねえか? お前に泣かれたら、オレはどうしたらいい」
「泣いて、ない……ッ! こ、子ども扱いしないでよォ!」

 けれどナナシは大人しく抱きしめられることをよしとせず、プロシュートの逞しい腕の中でジタバタと暴れた。
 いつもなら頬にキスの一つでもしてやればすぐに笑顔になったナナシの思いもよらない反抗に、いよいよプロシュートの表情に焦りが浮かぶ。

「ナナシ、ナナシ」

 落ち着けるように名前を呼んで、指通りのよい髪を漉く。どうにかこうにか聞き取れたのは、「プロシュートはいつもわたしを子ども扱いして、唇にキスもしてくれない。どうしたら大人扱いしてくれるか聞いたら、"大人の駆け引きができたらな"って言ったから!」という可愛らしい恨み事。

「……そんなこと」

 言ったか?と迂闊にも口にしそうになるが、プロシュートは慌てて飲み込む。また機嫌を損ねられても困るし、そういえば酔った時にそんなことを言ったような気がしなくもない。
 しかしこれだけ振り回されて自分から謝るのも癪だ。どこまでもずるい男で在り続けるプロシュートは、潤んだ目元に唇を落とした。

「まだ、駄目なの?」

 ナナシの唇が一瞬笑顔に変わりかけるが、すぐにふてくされたように頬が膨らむ。
 そういうところが子どもで、だからこそ甘やかしたくてたまらなくなるのだが、それを伝えてしまえば今度こそ少女はプロシュートと口を聞いてくれなくなるだろう。

「そんなことよりよォ、あいつらと何の話してたんだよ」

 ふくれた頬を指先で突いて、彼が一番気になっていたことを尋ねる。それでも愛らしい告白に、すっかり彼自身の機嫌も治っていたのだから現金な話だ。

「だから、内緒の話……秘密を話してるわけじゃあなくって、"内緒の話してて"って喋ってただけ」

 本当に中身は無かったらしい。
 呆れて笑いだすのをおさえず、プロシュートはナナシの耳元に笑みを浮かべたままの唇を近づける。

「なあ、"内緒の話"してくれよ、俺とも」

 耳元でとびっきり甘く囁かれてしまえば、ナナシは途端にうっとりとしてしまう。
 これが聞きたくて、ナナシは年上の友人たちまで巻き込んで一大舞台を演じたのだ。断る理由もなく、返事の代わりに首に腕回す。
 嬉しそうな少女の笑顔は、秘密が剥がれた後もプロシュートにはうつくしく思えた。

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