クラスが八つもあると、廊下がとても長い。 果てから果てならばなおさらだった。この学校は少し広すぎる、と思う。先日友だちにそうこぼしたら、「エナちゃんのお家もこれくらいでしょ?」だなんて笑われてしまった。跡部といることが多いせいか、私のことも規格外のお金持ちだと思っている人は多い。普通の一軒家なんだけどなあ。
ようやくたどり着いた教室を覗き込んで、目当ての友だちを探す。中休みの教室は、楽しげな話し声に満ちていた。何人かの女の子がこちらに手を振ってくれる。中等部からの編入生ではあるけれど、二年も秋頃を過ぎた今日、他のクラスにも顔見知りが増えた。 このクラスにはよく顔を出すからなおさら。
「おはよう、巴。どうしたん?」
教室を出ていたらしい忍足が、後ろから声を掛けてきた。ここにくる時は大体彼と話す為なので、今回もそうだと思ったのだろう。 忍足とは映画の趣味が合う。その感想を話したり、DVDの貸し借りをしたり。――彼はストーリー重視で、私は俳優目当てだから、そんなに話は噛み合わないのだけれど。
「おはよう。今日は君じゃなくてね……。あれ、きりちゃんは?」
てっきり隣にいると思った私の視線が、空を切る。 一緒じゃないのと尋ねると、彼は何かを言いかけてから、凛々しい眉を寄せ難しい顔をした。きっと「四六時中一緒におるわけやない」と言おうとして、「いや、結構おるか」となったんだろう。そんな逡巡が面白くて、つい笑ってしまう。
「前の時間、選択授業やったから。そろそろ戻ってくるんちゃう」
「そう」と私は手元の包みに目をやる。『この間』のお礼にと、彼の恋人、もとい私の友だちにお菓子を持ってきた。 説明すると、「渡しとこか?」と言ってくれる。でも……ここで忍足に託すのも、なんだか悔しい。まだ休み時間は充分にある。忍足の席に移動して、もう少し待たせてもらうことにした。
「きりちゃん、フィナンシェ好きかな」
「喜ぶわ。……手作りちゃうよな?」
「違うけど。なんだか含みのある言い方だね」
「巴サン。めっちゃ慣れた手つきでササーッとカレー焦がすやん」
こないだの合宿のことを言っているのだろう。向日たちに大笑いされたのは記憶に新しい。
「もう」
からかうような口ぶりに顔を熱くしていると、きりちゃんが友だちと連れ立って帰ってきた。 ぱっと目があったので手を振る。彼女は一緒にいた子に断りをいれて、ニコニコしながらこちらに駆け寄ってくれた。小柄な彼女がそうしていると、子犬のようでとてもかわいらしい。
「エナちゃん!」
「こんにちは、きりちゃん」
「こんにちはー。何の話してたん?」
「巴がな、カレーを――」「なんでもないの」
わざわざ吹聴しなくたっていいじゃないか。人の悪い顔でニヤニヤとしている彼を、きりちゃんは「なんやねん」と突っつく。もっとやっちゃえ。
「前にヘアピンを届けてくれたでしょ。そのお礼」
気を取り直して、用意していた菓子箱を手渡す。きりちゃんはぱあっと顔を明るくして受け取ってくれた。
「えー! そんなんいいのにー! でももらうー!」
「もらうんかい」
「もらいますよ。ありがとうエナちゃん!」
「いえいえ。口に合うといいんだけど」
「めっちゃ美味しそう!」
「まだ箱やんけ」
「箱でもう美味しいってわかる。私くらいになると。一個食べよっかな」
何マイスターやねん。とぼやく忍足を横目に、きりちゃんはいそいそと箱を開けた。「フィナンシェや!」と上がる声に、こちらまで笑顔になってしまう。場を明るくする、いい子だなあと思った。
ぱくりと、小さな口が思うよりも大きく開いて洋菓子をかじる。 どうかな? と聞こうとするよりも早く、「美味しいー! ちゃんとした味がする!」と幸せそうな声。
「よかった」
それから黙々と、もふもふと、美味しそうにフィナンシェを食べるきりちゃん。食べ物には好みがあるから、お気に召してくれたようでなによりだ。内心胸を撫で下ろす。 まんまるの目はキラキラとしていて、飴玉みたいでとてもきれいだ。
きりちゃんが黙ると、急に静かになった。ぱっと忍足を見ると――。 ずいぶんと、愛しそうに見つめるんだな。なんだか勝手に、気恥ずかしくなった。恋する友人の顔というのは、見ちゃいけないものを見た気分になる。
「一口」
心なしか、声まで甘いように聞こえる。
「ええよー」
きりちゃんは気付いていないのか気にしていないのか、なんでもないことのように手にしていた食べかけのフィナンシェを渡す。 私はパタパタと顔を扇ぎながら、なんとはなしに窓の外に目をやっていた。
「きりちゃんが食べてると、うまそうに見えんねん」
「せやろ」
「せやろて。普通自分で言う?」
「美味しいものを美味そうに食べてるって自負してんねん」
「過大評価とは言わんけども」
「等身大の伊丹」
「ちっちゃいなあ」
「うっさいわ!」
流れるようなテンポのよい会話。扇いでいた頬が緩んでしまう。おおよそ甘い雰囲気とは言えないけれど、とても自然体でいい関係だということが察せられた。
「仲良しだね」
「ベスフレやから」
「元、な」
「その言い方いややー! 今もベスフレでええやん。兼でええやん」
「兼業は禁止やで」
「公務員ちゃうやろ!」
「役所の方から来ました」
「詐欺の人が言うやつそれ」
畳み掛けるような応酬に、ついには吹き出してしまった。慌てて口元を隠すけれど、忍足は目を半眼にして、きりちゃんのことをうりうりと肘でつつく。
「ほらあ、きりちゃんがアホなこと言うから。巴わろてるやん」
「笑ってくれてんならええやんけ。コンビ組む?」
「やっとれんわ」
「どうも」
「ありがとうございましたー」
二人はきっちり頭を下げる。打ち合わせでもしていたようだ。他の同級生たちから、まばらな拍手があがる。どうやら、名物カップルらしい。たしかに息の合い方は熟練のそれだ。
「君たちって、二人きりでもそんな感じなの?」
「別にお客がいるからやっとるわけちゃうで」
「忍足くんもボケたがりさんやから。あ、そんなことより! エナちゃん、これめっちゃ美味しかった! エナちゃんも一個食べてみて」
個別包装されたフィナンシェを一つ渡してくれる。 贈ったものに手を付けるのはちょっとはしたないかなと思ったけれど、屈託なく笑顔を向けられてしまい断ることが出来なかった。それに、忍足じゃないけれどたしかにきりちゃんが食べていると美味しそうに見える。
「そう? それじゃあ、お持たせですが」
「お持たせですがやって! お上品やわあ。違うわあ。関西は下品でかなわんわあ。ね、忍足くん」
「一緒にせえへんで」
「でた! 名誉関西人気取り」
「やいやいゆうとりますが……もうそろそろ休み時間終わるで」
時計を見ると、あと五分。楽しい時間はあっという間にすぎてしまう。
「本当だ。それじゃあ、きりちゃん本当にありがとうね」
お礼を言って教室を後にする。
「こちらこそありがとう! バイバーイ」
「バイバイ」
わざわざ廊下まで顔を出してくれた友だちの姿に、胸がじんわりと暖かくなった。 急いで教室に戻ると、跡部が「どこに行ってたんだ」と出迎えてくれる。
「きりちゃんのとこ」
「きりちゃん……? ああ、伊丹か」
私は貰ったフィナンシェをかじって、あの賑やかで暖かい雰囲気を思い返していた。
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