倉庫には薄明かりが落ちている。 大きな丸窓には格子がつき、汚れた擦りガラスからは光も差し込まない。天井からぶら下がるいくつかのむき出しの電球だけが頼りだった。 はじまりは買い出しを狙っての襲撃だ。ソレダーと毎週の買物をする最中に、クランは海楼石の手錠で繋がれ、ソレダーは後頭部を殴られた。そして粗末な椅子に両手足を縛られ、手には相変わらず海楼石の手錠。敵ながら鮮やかな誘拐で、全身の力が抜けて暴れる気力もなかった。
(今何時だろ……) 縛られてからずいぶん殴られたせいか、体感時間が狂っている。 隣には同じように拘束されたソレダーが、同じようにぼろぼろで退屈そうにしていた。お互いに動けないらしい。クランは喉の奥から唸り声をあげた。主人に首輪を付けられるのはいい。けれど他の相手に体の自由を奪われるのは屈辱だった。
―――ギィ……
重たげな音を立てて扉が開く。 すると男が一人、周りの部下にお辞儀をされながら入室した。馬面で背の高く、いかにも高そうなベロアのコートを着込んでいる。殴られて待機するだけのなかに訪れた新しい展開に、二人は顔を上げた。
「"バンダースナッチ"のクランに、"笛吹き"のソレダーか。わりと上物じゃねえか、ええ?」 「捕まえるのは簡単でしたよ、ボス」 「能力者なんて脆いもんだ。この人攫いチーム、"カバリオ・バイカーズ"にかかりゃあな!」 「……なるほど、カバリオ・バイカーズか」 「ソレダー知ってるの?」 「いや初めて聞いた」
ソレダーは肩をすくめてせせら笑う。彼女らは他の海賊団などさして興味がないので、手配書は流し見する程度しかしたことがなかった。ましてや地元のギャングチームなど覚えているわけがない。 顔を見合わせてくすくす笑う女二人に、馬面の男―――カバリオは青筋を立てて口元をヒクつかせる。それでも少しばかりの余裕をもって、そのまま表情を笑みの形にした。
「さて、これを見ても同じことが言えるか?」
カバリオが指さした先には、いつの間にかもう一人の捕虜がいた。二人と同じように縛られ、頭に麻袋を被せられた男。気絶しているらしく、首を俯かせてピクリとも動かない。 クランは内心とても動揺した。 背格好がドフラミンゴにとてもよく似ていたからだ。手足の長さや体の厚み。間違いでなければ纏っている服すらも、汚れてはいるが最近見たものに似ていた。
「どうだ? お前らのボスの哀れな姿は」 「アホじゃないの。他の幹部たちと一緒にいたんだよ。若さまが捕まるわけないじゃん」
番犬は動揺をおくびにも出さずそう言い捨てた。そうだ、ありえない。自分とソレダーや他の幹部ならいざ知れず、徹底した注意深さを持つドフラミンゴがギャング程度に大人しく捕まるとは考えにくかった。 手足には海楼石の枷。 偽物にしてはずいぶん重装備だ。 ドクドクと心臓が脈打つ。額に嫌な汗が流れる。頭から流れた血が目を塞いで、実のところ前がよく見えなかった。
「ほォ?じゃあコイツは殺してもいいな!」 「……ッ!!」
男が懐の銃を麻袋に押し付け、親指で撃鉄を起こした。クランが力づくで椅子を破壊しようとするが動けない。引き金に指が当てられ――――ガァン!!と倉庫に衝撃が走った。 それは銃声ではない。 床がビリビリと揺れている。ソレダーが縄で縛られていた足で木の椅子を踏み砕き、破壊した音だった。
「――――お望みは何だ?」
傅いて主人に命を乞うような、優雅な口ぶり。隣にいたクランですら首筋が粟立つような声だった。薄闇のなかでなお黒い瞳が、目線を悟られることなくぎらぎらと光っている。 銃を構えた男は一瞬息を呑み、それでも上に立つものの矜持か、ゆっくりとソレダーを振り返る。暴力と血に飢えた危険な人間の目だった。
「そうだな、こういうのはどうだ?」
お前ら海賊らしい遊びだ。 カバリオは引き金から指を離したが、相変わらず銃口を捕虜の頭に当てたまま宣言した。 「これからお前らの拘束を解く」 「ほお」 「そしたら―――二人で殺し合え。どっちかの息の根が止まったら、こいつを殺さないでおいてやる」
二人は汗ひとつかかずに頷いた。 男がいささかつまらなそうに顎をしゃくると、後ろにいた部下たちが彼女らの手の錠を解いた。海楼石が体から離れた瞬間、クランは解放感に大きく息をつく。そして足の鉄枷を怒りまかせに引きちぎると、外そうと近づいたギャングたちの顔色が少し悪くなった。 こいつ、怯えたな。 どうやらこの血に塗れた遊びを楽しんでいるのは、ボスと数名程度らしかった。悪名高いドンキホーテ海賊団の幹部に名を連ねる賞金首が二人。刺青はなくとも能力者。確かにその相手の拘束を外すのは心臓に悪い行為だろう。
「さてと……」
クランが首を鳴らし、トントンと軽く飛び跳ねて体の調子を確かめている間、ソレダーはドフラミンゴと思わしき男をじっと見た。 あれがドフラミンゴだという証拠はない。むしろ偽物である可能性のほうが高かった。しかし奴らの妙に鮮やかな手段を目の当たりにした以上、万が一ということがあるのも事実だった。 ならば、歯向かうわけにはいかない。 クランが今すぐあの男の首をかみ砕いたところで、銃の引き金を引くには間に合わないだろう。ならば悩むべき問題はたった一つだ。
「どっちが死ぬ?」
口の中の血をベッと吐き出し、あっけらかんとクランが言った。化物の番犬。厄災のメイド。最高幹部や特別幹部たちに比べれば優先度は低い。二人の重要度は似たり寄ったりだ。 クランには死ぬ準備も殺す準備もあった。ソレダーは黒目ばかり目立つ瞳を細め、赤い唇が絵のように笑った。
「私を殺してくれ」 「わかった」
本気かどうかは分からない。彼女が目線や唇や指先の動きでクランに指示を出したら、それに従うつもりだった。だがあの揺らめく瞳と微笑みが、その真意を読み取らせない。ならばクランにとって言葉にされたことだけが真実だ。 汚れた天井から、雨漏りの水滴が溜まる。指先に力を込めて狙いを定める。ぴちょん、と水が落ちると同時にクランが地を蹴った。
―――フッ
倉庫から明かりが消える。 騒ぎ声。光る糸。銃声。破裂音。
次に明かりがついたとき、敵のすべては既に息絶えていた。五本の糸に体を裂かれたもの、爆破されたもの、銃で撃ち抜かれた者。クランも一番近い一人を殺し、ソレダーの足元にも一人転がっている。 開け放たれた扉には、いつものコートを着たドフラミンゴが立っていた。彼はサングラスの奥から傷だらけの二人を一瞥したあと、歯を食いしばり顔を怒りに歪ませる。そして言葉をかけるでもなくすぐに踵を返し、外へと走り出していった。 その背にグラディウス、ピーカ、ベビー5、バッファローも続く。それは相手の完全殲滅を示す人選だった。
「やられたなァ、お前ら」 「ぺへへへ!ドフィはカンカンだ!ここら一帯のシマは全部焼いちまうって息まいてたぞ」 「楽しそォ。あたしも行きたい……」 「ああ、見てたいな……」 「お前らは治療だよ。ったく、そっくりだな!」
満身創痍の二人に、ディアマンテとトレーボルが笑ってみせる。銃や刀で致命傷を与えるつもりなかったようだが、体中打撲だらけで、クランは頭から派手に血が流れているし、ソレダーは木材で殴られた拍子に頬をぱっくりと切っている。 それでも二人が歩けると分かって、幹部たちはさっさと財宝を漁りに行ってしまった。椅子から蹴り倒された捕虜の顔が、麻袋からはみ出している。顔はドフラミンゴに似ても似つかなかった。 クランはハァと気の抜けた溜息をついて、ソレダーの横に並んだ。
「さっきのって本気だった?」 「そっちは本気だったな」 「うん、ごめん」 「いいさ、時間が稼げたろ?」
クランは何を言うべきか悩んだ。あと一瞬遅ければ自分の爪がソレダーの首を切り裂いていただろう。状況が状況だけに躊躇いはなかったが、それでも申し訳ないような気持ちはある。 ソレダーはポケットから煙草を出して口に咥えた。手に力が入らないのかまごついているので、代わりに火を点けてやると嬉しそうに煙を吸い込んだ。そのまま肩を支えて歩き出す。お互いになんて酷い怪我だ。
「なんでかなって思ったの」 「ん、」 「夢が叶ったみたいな顔してたから」
それは、明かりの消えるほんの刹那。 ソレダーはゆっくりと顔を上げ、口から煙草の煙を吐き出した。外はもう夕暮れに包まれている。赤と紫の混じる陽に照らされた瞳は、相変わらず何も悟らせない。クランはそれを見て、グラスに注がれた酒の揺らめきを思い出した。 酔いが回りそうだ。
「ふふ」
ソレダーは小さく喉を鳴らしながらクランの頭を撫でた。その指先の動きはドフラミンゴによく似ている。もしかしたら、ドフラミンゴがソレダーに似ているのかもしれなかった。 クランは改めてソレダーを殺さなくて良かったと胸を撫で下ろす。彼の弟が死んだ今、他の最高幹部たちも知らない空白の期間を知るのはソレダーだけだ。クランはドフラミンゴの過去を詳しく知っているわけではなかったが、感覚を共有できる相手がどれほど貴重なのかは知っていた。
「帰ろう、船からでも花火は見えるさ」 「そうしよォ〜」
この話は終わりだと言われた気がした。 街のあちらこちらから音楽のように破壊が重なっている。真っ赤な残照と悲鳴が混じって、火なのかどうかも分からない。クランは気を抜いてあくびをした。なんていい子守歌だろう。
そうして番犬とメイドの、長い長い一日が終わった。
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