看守が自室で愛でてやまないゴールドフィッシュの尾びれを彷彿とさせる、幾重にも重なったシースルーのチュール・スカートを揺らしながら、彼女はのんびりとした歩調で、けれど迷うことなくその鉄扉を押し開けた。当然のようにノックはない、そして扉は空け放してそのまま。モニターを眺める看守の視線は変わらず、けれどその瞳でない部分は全て、彼女の一挙一動をじっと観察するように神経を張りつめさせる。彼女がこのコントロール管理室へまっすぐ歩んでくることはわかっていたから、あえて立ち上がる必要性は感じなかった。
 彼女の目的はベル・ヴェストにあるのだと、彼は自らを憶測する。どこかですれ違ったのだろう、それもヴェストは気にもとめていなかった程度の、一瞬のすれ違いだった。しかし彼女はことあるごとにヴェストのあとを付いて回る。卵を破った雛のようで、その実、見ているのは"ベル・ヴェストその人"ではないことにも、彼は既に気付いていた。

「FE20911」
 
 ヴェストはゆっくりと低い声である番号を口にした。それは彼女に与えられた囚人番号だった。赤い鮮やかな頭を傾げることもせず、彼女は大きな眼をいちどぱちくりと瞬かせただけで、まるで自分のことと気付いていないようで、扉の前から一歩だけ進んで両脚を揃えると、彼が振り向くのを待っているかのようだった。派手なバーレスク衣装が、灰色のデスクと同じく色のない事務椅子しか据えられていない簡素な部屋にひどく不似合いだ。
 FE20911はわざわざ"脱獄"して、この場に脚を運んでいる。囚人服も着用しないこともあって、彼女の存在はひときわ例外的なものだった。例外だらけの刑務所だったから、容易に例外とはいえないかもしれない、しかし彼女はとにかく異質だった。
 罪状はその朗らかな顔と性格に見合わず殺人で、それでいて救いようのない猟奇殺人だ。この水族館でも既に何人か手にかけているという噂も聞く。入所しやそのころから既に現在の"この"性格だったらしい。"脱獄未遂"すること数度、ベル・ヴェストが唯一"兆候"を読めなかった相手でもある。
 しかしながらおかしなことに、肝心な"脱獄"まで踏み切ったことはなかった。この水族館から出て行こうという姿勢はまるで見られないのだから、いまいちヴェストは納得ができずにいる。彼女の趣味は脱獄だが、どうやら"外に出る"までは頭がまわらないのかもしれない。

「ブエナス・ノチェス、ミスター、それともリトル・マーメイド?」

 何も答えない看守に対してまるで白痴のような顔をして微笑みかける、それだけで正常な人格ではないことは間違いなかった。一度懲罰房に入れた時には子どものように泣きわめいた。それが何故だか耳に障ったから、その日のうちになかったことにした。通常ならばありえない朝令暮改だが、誰も気に留めやしなかった。ヴェストもなぜだかわからずにいる。いつしか付け回されるのにも慣れて、やがて相手をするには疲れるから受け流すようになっていった。

「なにも答えてくれないのね」

 すこし残念そうな、しおらしい声がしりすぼみに吐き出されると、少し間を置いて、ヴェストはようやく首だけ振り返る。目線が噛み合って、そしてみるみる間に彼女が瑞々しさを取り戻していくから、ヴェストは静かな息を吐いて、口を開いた。

「この場所に、囚人の立ち入りは禁じられている」
「ンン〜〜〜〜〜?そうなの、だれもいないワ、見たことなぁい!」

 FE20911はきゃはは、と年端もいかぬ少女のように笑った。鈴を転がすような声とはまさしくこういうことなのだろう、純で幼げな顔立ちはよけいに彼女の清廉さを引き立てた。いっそわざとらしいまでの清廉さは、上っ面であるようにも見えた。

「でもでもでもでも、天使を連れてるあなたがいるもの、ねェ〜〜〜〜〜〜?」

 重そうな長い睫を一度瞬かせて目を細める、とろけるような視線を向けられて、そのあたためた蜂蜜のような視線を見ていられなくて、ヴェストは瞼を下ろしてぐっと眉間に皺をよせた。最初からもうずっとこの調子だったから、ずいぶん慣れたものである。
 どうやらこのFE20911(名前は既に調べた、ピィチ・ジョンという)には"特別な能力"があると考えて間違いなさそうだった。なにより血と肉を持つ生物の貪欲さのようなものを、このピィチ・ジョンは秘めている。彼女の知るところではないのだろう、獣のような本性だ。

「僕は天使なんて連れていない」

 ピィチはヴェストのひどく苦手とするタイプであった。しかし理由はそう単純なものでもない。ただ彼女が幾度ともなく脱獄に成功するから、と、ただそれだけだったならどんなに楽だろう。それだけで済まないから悩みの種とするに値する。さらにわるいことには、そのファクターは一つに収まらない。けれど彼は、ピィチを退けられずにいる。

「この世に天使なんていない」

 同様にして神もいない。

「ほんとよ、ほんとにほんとにほんとなの。天使はいるワ、いるもの、ワタシには見えるの、ほんとによ?」
「そうか」

 ぷかぷかと宙に浮かんだような女だと思った第一印象は、きっと永遠に変わらないだろう。ピィチ・ジョンはいつでもアートとともに生きている。
 やがて彼女はヴェストの聞いたことのない曲を口ずさみ、そのリズムに合わせて体を揺らす。ゴールドフィッシュ・テイル・チュチュが舞う。ひらひらと花びらを散らす桃花のように踊ってみせる。けれどその可憐な少女のダンスには、そこにあるべき、命を散らすような繊細さと儚さなどは一切存在しない。情熱的なダンスだ。血と肉を通わせた人間であるように見えた。それが彼女の生の淵源なのかもしれない。

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