池の畔で腰を下ろしている。
 この池には一応立派な鯉がいてたまにいち野も餌をやるが、皆はあまり興味を示さない。歌仙は時折池を覗き込んでは筆を走らせていることもある。句を詠んでいるのだろう。その他では、最近本丸に来た新顔もたまに池の側にいることがあった。
 その新顔というのがなかなか変わり者で、見た目からしてちょっと異様なのだが、中身も相当である。お上から送られてきた資料で一応どんな刀か読みはしたが、いち野は基本的に本人の話は本人の口から聞きたいと思っているので、彼相手だとなかなか捗らない。あの神降ろしの刀は僧である岩融よりも禅問答みたいな喋りをするからだ。

「主上、何をしておいでで?」
「やっほー七支刀〜。鯉見てるの」
「ほほう、主上はど鯉がお気に入りですか。やはりあの赤と黒の美しい模様の者ですか?いやいや、あちらの大きな黄金色のものでしょうか」
「うわ!出た!でたよ!そういうとこだよ!てか見えてるの?」
「あはははははははは!!」

 突然横に現れたかと思ったら、相変わらずまともな返事をしようとしない。この程度のことは頻繁に起こるのでそこそこ慣れてしまった。白い紙に覆われた目が何を見ているのか、それはいち野にはさっぱり分からない。ただ何となく七支刀の口振りには、いかにも事実らしい形をしながら、どこにも真実がないように聞こえるとだけ思っていた。
 だからといってどうもしない。
 審神者という仰々しい名前で誤解されがちだが、いち野には刀に宿った魂魄を人の形にするだけの能力しかない。刀剣と審神者には相互に益があってこそ関係が成り立つのであって、皆に主と呼ばれようが万能ではないのだ。彼が池で悠々と泳ぐ鯉が見えているのか、それとも適当に当たりをつけての発言だったのか、そんなことすら分からない。或いはそれでいいと彼女が思っているから及ばないのかもしれなかった。

「主上はこの鯉がいつまで生きると?」
「そういや、寿命とかあるのかな?」
「この世にある全てのものはいずれ朽ち果てる運命でしょうね。それが命であれ、者であれ、鉄であれ。それとも主上は不変なるものがあるとお思いで?」
「ないない」

 答えは間髪を入れず返された。打って響くような声には本当に常にそう考えていることが滲み出ていて、七支刀は愉悦にその整った口元を自然と三日月のように曲げてしまう。一度生きて死んだ者の言葉ならなおのこと信憑性があるというものだ。
 いち野が池に指先を浸けてぱしゃぱしゃと遊ばせると、数匹の鯉が餌を貰えると思ったのか寄ってきた。映る少女の姿は波紋によって大きく揺れるが、当のいち野は眉ひとつ動かさずに佇んでいる。彼女がむしろ己の心を押し込めるときそうするのだと、七支刀は短い邂逅の中で既に気付いていた。

「ここにはたぶん前も後もない」
「其れは主上が主上であるゆえ」
「そう。死んでるしね、あんまり覚えてもいないし、先がどこまであるのかもわっかんない。でもここ、夜がきて、寝たら朝がきて、だんだん寒くなるし、たぶん春も来るの。そうじゃないと、じゃないと………んん………寂しいからかな」
「おや、寂しいのですか。恨めしいでも悲しいでも憎いでも恐ろしいでもなく」
「そうだね、わたし、ずっとさびしいのかもしれない」

 自分という個の輪郭を見失い、心をどこに置けばいいのか、体をどこへ置けばいいのか分からなくて眠れない。誰かに抱きしめてもらいたくてたまらなくなる。そういう夜が、ある。
 いち野は視線を池の底のそのまた奥を覗き込んでいたが、ざわざわと木々を揺らす強い風に肩を震わせて口元のマフラーに鼻まで顔を埋めた。杏色の髪が風に揺蕩う。冷たい池の水から指を離して立ち上がると、丸い岩に引っかけた足がバランスを崩して前後にぐらついた。

「うあっ、と、っとおっ?」
「おっと」

 宙を掻いたいち野の手を赤い不思議な色合いの手がしっかりと掴む。なんとか池に落ちるという間抜けをすることなく体勢を立て直してはあ、と息を吐いて七支刀を見た。長身の半裸の男は相変わらず頬に笑みを湛えている。変わりなく。ほんとうに変わりがなく。

「おやおや、主上はほんに危なっかしゅうございますな」
「七支刀!」
「はい?」
「意外に子供体温!さんきゅ!」

 いち野の白い手が七支刀の手をぎゅうと握る。彼の赤い肌は溶岩のように熱いのか、もしくは鉄のように冷たいと思っていたが、まるで短刀たちに近い体温をしている。清光のように男にしては華奢な白い手や、岩融のようにがっしりした厚みのある手とも違う。無駄なく細い腕首のわりに頑丈な指は、燭台切に少し似ているかもしれない。
 掌にまで走る文様をなぞって嬉しそうに笑ったいち野に、七支刀はほんの一瞬、それも目の前の少女にすら気取られないほどの時間であったが言葉を失った。いち野は寒そうに肩を縮めながら彼の手を見つめて世間話でもするように言う。

「なんかこういう答えの出なさそうなハナシ、わたしはいいんだけど、清光めっちゃ悩んで泣きそうだしあんま畳み掛けちゃダメだかんね」
「ははは、愛されておりますなあ」
「そーだよ、清光も岩融も薬研も燭台切も今剣も他の刀もひっくるめて泣かせていいのは審神者ちゃんの特権だから、ふっふっふ」

 どうやらいち野は七支刀の歌うような問いかけはほとんど無意味で、彼が皆の心を乱して引っかき回すのに愉悦を感じる性格だということは何となく察しているらしい。歯を見せて笑う瞳の奥には人ならざる者にしかない輝きがある。七支刀は、審神者か、と唇の中だけで呟いた。
 七支刀は神を降ろす祭具である。人を斬るために打たれた刀とは神格が一線を画している。だからこそ、だからというべきか、その体は殆ど神秘や神聖に近い。審神者なる者の性質もよくよく感じることができる。未来の人間が殺してでも欲しがる理由も分からなくもないほどに。

「あっでもさ」
「はいはい」
「七支刀もわたしんだからね」
「………あは」

 だから誰かに泣かされたら怒ってあげようと、瞳も見えない男に向かって。岩に乗ったままのいち野の顔はいつもより近く、じーっと七支刀の見えない表情を見つめたあと、地面にぴょんと飛び降りて「ドーナツが食べたい」と告げて屋敷の方角へ足をすすめた。自然と手が離れた瞬間、いち野は背筋がぞわりと寒くなるような感覚を覚えた。
 神の剣は燃費が悪い。
 背では何かがツボに入ったのか堪えきれずに笑い声を轟かせはじめた刀剣を振り返ることなく、スキップともふらついているともとれる千鳥足で、シリアスが長く続かないいち野はだらだらと屋敷へと戻ったのだった。
 

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