不恰好にへこんだブリキの灰皿が、少しの隙間風でカタカタと音を立てる。がらんとしたアパルトメントの一室は、剥がれかけたクリーム色の壁紙がみすぼらしいものの、男が普段使っている「ゴミ溜め」とは程遠いほど清潔だった。部屋はかつてブローノ・ブチャラティが彼の名義で借り、ある男に与えたものである。長らく使用されていなかったその部屋で、今は二人の人間がソファに座っていた。
 一人はエトーレという若いギャングマン。もう一人のベアトリーチェというまだ幼い少女である。

「部屋、なんにもないね」
「………まあ」

 男は言葉足らずに返して、それきり口を開かなくなる。けれど少女を横目で見つめる両の瞳には、静かで主張することのない確かな情が湛えられている。その冴えた青色を直視することができず、ベアトリーチェは俯いて爪先に視線を落とした。

(あと一時間………)

 ことの顛末を簡潔に述べるならば―――男が裏切り者の幹部を始末したのがはじまりであった。
 かつての上司であった裏切り者を何の躊躇もなく、むしろ憎しみさえ滲ませて殺した様子から、組織への反逆を企てているのではないかとの嫌疑がかけられたのである。もちろんそんなものは彼を邪魔と思っている者の言いがかりでしかない。しかし「疑わしきは罰する」というのがパッショーネひいてはボスの基本的方針である。

 疑われるような行を取る者が愚かなのであって、その真偽はさほど重要ではない。普段エトーレが掲げている行動理念は、皮肉にも最悪の形で彼自身に降りかかることとなった。
 そしてその命を受けたのが暗殺チームに所属しているベアトリーチェであり、エトーレは問題なく「マイ・ケミカル・ロマンス」の餌食となっているのだが―――ここにきて事態は一変した。

『ターゲットの暗殺を中止。この任務には大きな誤りがあった。スタンドを午後6時までに解除し、なるべくことを荒立てずに撤退すること』

 時刻はすでに午後5時を回っている。
 数十分前、電話越しに淡々と伝えられた旨を思い出すと、ベアトリーチェの胃は鉛のように重くなった。任務を言い渡される際、たいていの場合裏に隠された事情など彼女には伝えられない。必要がないからだ。けれど今回のターゲットは誤りであり、しかも同じ組織の人間であって、スタンドの解除は彼女自身が行わねばならない。
 そんなことは初めてだった。
 ベアトリーチェの『マイ・ケミカル・ロマンス』の能力は「強制的に愛させる」というものである。ゆっくりと時間をかけて、スタンドの影響が彼女に抗えないほど進行し、そして誰にも分からない形で命を奪う。だからターゲットは命を捨てることを喜んで受け入れる。愛しているから。愛のために死ねるのだから。

「エトーレ、あのね」
「ああ」
「今からわたしがすることに、なんにも言わないで、動かないでいてくれる?」
「………」

 眉根を寄せて僅かに躊躇ったあと、エトーレは頷いた。この男はスタンドの術中に嵌まりベアトリーチェを「愛して」からも、ほとんど態度を変えていない。むしろ難しい顔で石のように黙り込み、ベアトリーチェには危険が迫らない限り触れることもなかった。
 少女はそういう人間を知っている。
 彼の愛し方は、壊れやすい宝物を扱うのと同じだ。触れて慈しむことも優しい言葉をかけることなど知りもしない。愛がなんたるかなどと考えたこともないし、必要がないと思っている。そんな人間が突然愛することを知って、戸惑わないわけがなかったのだ。

「………エトーレ」

 呼びかけは決して問いではない。
 彼の両目に手をかざして、蓋をするように覆う。エトーレは掌の中で何度か瞬きをしたあと目を閉じた。その暖かな暗闇が、彼の心に棲みついた偽りの感情を剥がしていく。パキパキとプラスチックを壊す音。ベアトリーチェは迫りくる恐怖で、稲穂色の豊かな睫毛を震わせる。


「何だよ、そりゃあ」

 ―――愛を知らない男が愛を知って、そして全て失ったら、一体どうなるのだろう?
 エトーレの表情から血の通う情が消え失せ、彼の目の前の少女は守るべき存在から得体のしれぬ脅威に、信頼は猜疑に、心に巣食う常温の安寧はマグマのような怒りに急激にすり替わる。ベアトリーチェの恐怖の答えは、警戒と敵意で燃えたぎった目が明確に示していた。

「……エトー、」
「呼ぶな!!俺の名前を呼ぶなッ!!このガキが、クソッ……冗談じゃあねえぞ!ふざけやがって……ッ!!」
「ご、めんなさ、ごめんなさい、ごめんなさい、私が悪かったの。間違いだったって、」
「うるせェーーーーーーーッ!!!!」

 何も聞きたくはないとばかりにエトーレが絶叫し、背後に大きな螺子を持った影が現れる。宙に渦巻いた鎖が重い音を立てて少女の胸を貫き、ベアトリーチェは引き攣った悲鳴を上げた!

「ベアトリーチェ!その名前もウソか?どこからが偽りだった?オレは信じられないことに……オレはオレすらもう信じられないが……お前を信じてた!!それがお前の能力か?!」
「あッ………ぐ、………」
「オレを……よくも『裏切った』なッ!!」

 自分の言葉が、逆上したエトーレには火に油を注ぐだけだとベアトリーチェは理解していた。必死に声を殺す。殺気への恐怖で今にも溢れそうになる涙は唇を噛むことで耐えた。今泣いてしまえばスタンドが発動し、任務を遂行することはできなくなる。
 真っ青になってもはや言葉を口にしない少女の姿を見て、エトーレは泣きそうに歪んだ顔を激しい憤怒でねじ伏せる。能力を解除してもエトーレが少女を愛した記憶が失われるわけではない。エトーレにできるのは鎖を繋ぐだけで、怒りのままに螺子をその心臓に打ち込むことがどうしてもできない。それが尚更男の怒りを加速させていた。

「……っチクショウ、チクショウチクショウチクショウ!!チクショウ………ッ!!」

 どこにもぶつけられない気持ちをどうにか吐き出すように、短い罵倒を繰り返してエトーレは壁を殴りつける。痛々しい音に華奢な肩が揺れた。悲鳴を漏らさないために口元をきつく押さえて荒く息をして、やはり涙を流すことはなかった。
 彼の上司であるブチャラティが彼を救ったのならば、真実の裏切り者である依頼元の男が元凶であるとエトーレは知るだろう。けれどもはや、そんな問題ではないのだ。どんな弁明もズタズタに引き裂かれた彼の心が修復するわけではない。それを分かっているから、ベアトリーチェは重い重い罪悪感を楔に辛うじて涙を殺していた。

「はぁ、はぁッ、ハアッ………」
「…………」
「………………クソ、」

 零れた悪態は弱々しい。男はやるせなさに靴音を強くし、少女の頭を睨みつけてから堪らず部屋を飛び出した。今の彼にできることはそれしかなかった。喧しく鉄骨階段を駆け下りる音が遠のいていくにつれ、ベアトリーチェの嗚咽は次第に大きくなる。

「うえ、ぇ、ええん…………!ご、めんなさい、ごめんなさい、ちゃんとできなくてごめんなさい……っ!!」

 誰もいなくなった部屋で一人、膝を抱えて泣きじゃくる。それは少女が短い期間の中でエトーレという男にいかに同情し、応えようとしていたかの証拠だった。だからこそ正解を見失う。いたずらに与えられたそれを失って絶望することと、あのまま何も知らずに喜んで死ぬことは、どちらが彼にとって救いがあったのだろうか。
 謝罪は誰にも届くことはない。窓際に置かれたブリキの灰皿がまたカタカタと音を立てていた。







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