坂下なつめは怖がりだ。


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 ジュワジュワと蝉の缶詰を開けたように、魂の籠もった演奏が聞こえる。命の灯火をかけて響く鳴き声は、蒸し暑い気温を余計に夏らしく彩っていた。
 世は夏休み。私も例に漏れず遊びにバイトにと、ある意味忙しく過ごしていたのだが、どうしてかその日はぽっかりと予定が空いていた。

 銀色の水盆に氷水を張って、まっさらの白いホットパンツに身を包んだ裸足を沈める。うだるような暑さは相変わらずだが、透明の美しい水が太陽を光を反射させる様子は好ましい。
 レモンイエローのキャミソールワンピースは夏らしくてお気に入りだが、父に言わせれば一枚では"はしたない"格好らしく、先日ズボンを着用せよとの命が下された。そんな時代錯誤な台詞は聞き流しても良かったのだが、欲しかった服を買ってくれるというので、つい頷いてしまったのである。
 後日、ブランドに疎い父は値札を見てひっくり返りそうになっていたが、こちらの預かり知るところではない。

 それはともかく、暑い。
 団扇からそよぐ微風ではとても追い付かない。うっすらと汗ばんだ肌に張り付く長い髪をまとめ上げ、バレッタで留めた。涼やかな木陰の下に移動して、ふうと息をつく。

「昭子ちゃん、昭子ちゃん……」

 舌足らずな声が自分の名前を呼ぶ。耳が察知した方向に視線を動かすと、まだ青く瑞々しい葉をつける金木犀の垣根から、栗色の綿毛が揺れ、鈴を張ったような目がこちらを覗いている。

「なつめ?」
「なつめ、です」

 おっかなびっくりに返事をしたのは、私の従姉妹にあたる少女。母さんが多忙な母親を待つ小さな親戚の女の子を見かねて、彼女が小学校に上がると同時くらいにこちらの家で預けられるようになった。
 きょろきょろとあたりを見回しているのは、承太郎が居ないかチェックしているのだろう。あの十八歳にして巨漢の兄はお世辞にも子供に好かれやすい容姿とは言えず、また分かりやすい親切心など持ち合わせていない性分なので、殊更この幼い従姉妹に怯えられていた。
 自分以外には縁側に居ないよ、とアピールして手招きすると、紅顔をぱっと明るくさせて近寄ってくる。当然といえば当然なのだが、「頭と体の縮尺が合ってないんじゃないか」というくらいに、子供というのは小さい。

「昭子ちゃん、なにしてるの?」
「何もしてないも同然だけど、特に何かひとつって言うなら、足冷やして、涼しくなってる」
「私もすずしくなりたい!」
「いいけどなつめ、今日お父さんお母さんとお出かけするんじゃなかったの?ほら、綺麗な靴履いてるし」

 私に倣って裸足になろうとした少女の足下は、常ならないなめらかなきらめきを持っている。エナメルにリボン付きのストラップ、日除けのカンカン帽子。いかにもこれからどこかにお出かけしますよ、と言わんばかりの出で立ちだった。コットンレースから伸びるか弱げな脚も、まだ今年の太陽に焼かれておらず、白昼でいっそう柔らかに輝く。
 それを指さして首を傾げると、なつめは目に見えて気落ちしたので驚いてしまった。昨日まで動物園にいくんだとはしゃいでいたのに、この落差はどうしたことだろうか。

「動物園、い、いきたく、ない……」
「……お腹でも痛い?」
「ううん」
「じゃ、何か心配事?」

 体調不良ではないらしい。不安げに目を泳がせる子供を抱き上げ、向かい合って膝の上に乗せたら、嘘も誤魔化しもなく眉を下げた。あんまり目蓋を開いたら目玉を落とさないか心配になる。

「動物園にね」
「うん」
「シカが、いるから……」
「ああー……」

 きっと今の会話では分からないと思うので補足すると、先々月に奈良へ旅行に行った坂下家が、奈良公園でお昼を食べていたときである。後ろから忍び寄った立派な角を持つ鹿に、娘の弁当の中身を食い荒らされた、らしい。
 なつめの父親から聞いた笑い話ではあるが、本人にとっては酷いトラウマになっているらしく、鹿に限らずとにかく角のついた動物にすっかり怯えるようになっていた。
 犬と猿、ハブとマングース、トムとジェリーといった具合に、なつめにとって鹿とは天敵と呼ぶべき存在なのである。

 それを慮り、思考を頭に一巡させたあとにじっと瞳を見て。

「そうだね。無理してまで行かなくてもいいんじゃない?別に行かなきゃダメってわけでもないし」
「!ほ、ほんとう?」
「ただ、行ったらきっと楽しいだろうな。お母さんとお父さんとお弁当食べてさ、可愛いの動物……なつめの好きなうさぎとかパンダもいるし、あそこ人気だから。次行こうっていっても行けるかどうか」
「………!!」

 なつめの顔色が変わった。やはり女というものはどの世代においても"限定"という響きにはとことん弱い。元々動物園に負のイメージがあったわけではないのだから、問題といえば襲ってくるかもしれない鹿だけなのである。
 あと一押しだな、なんて打算はおくびにも出さず、残念そうにため息をついて水面を揺らす。

「そっかー。行かないんだ。私が代わりに行ければ行きたいんだけど、もう少ししたらバイトだしなぁ……」
「………でも、でもでも、でもぉ」
「恐がりちゃん。じゃあこうしよう」

 檻に入っているとは理解しながら、一度植え付けられた不安感や恐怖感は一朝一夕で解けるものではないらしい。どこまでも怯えたように視線を揺らす小さな少女の小指をとって、柔らかく目元を緩める。なつめは不思議そうに小指を見た。
 子供に絶望を説くのは、良くないことだ。

「鹿に襲われそうになったら、私を呼んでもいいよ」
「えっ!で、でも昭子ちゃん、お仕事なんでしょ……?」
「実は私、魔法使いなの。なつめが泣いてるときだけ限定の瞬間移動。あっちからこっちに、地球の裏側にだってひとっ飛びできちゃうわけ」

 内緒話をするように耳元に唇を寄せて、大事な大事な秘密を打ち明けるように。少女の目にファンタジーな星が飛んだのも知らんぷりをして、魔女は神妙に声を潜める。

「誰にも言っちゃダメだからね。母さんも父さんも、承太郎だって知らないんだから。なつめと私の秘密」
「う、うんっ!い、言わないっ!!」
「そう、お口にチャック」

 ジイーと唇のジッパーを閉じる動作を、ミラーリングで二人揃って。必死に口を噤む様子が笑いを誘うが、魔女が吹き出してしまっては演出が台無しである。
 膝の上に乗る重みが、少し前に抱き上げたときより増していることにふと気づいた。そういえば目線も上がっているだろうか、と頭の片隅で考えて。

「なつめが危ないときは、どこに居たって見つけてあげる」

 だから平気だよ、動物園なんて!
 気取った台詞回しで絡めた指をまるでステッキを振るように、拙い約束を交わそうじゃないか。どちらかが忘れてしまえば、何の効力もないぺらぺらの約束。それでもこの子が楽しめる場所を一つ失うくらいなら、私がずっと覚えていればいい。

 大きさの違う小指を見て、私たちの恐がりなお姫様は。


夏虫は見ていた


 8月13日、10時56分。
 縁側から笑顔の従姉妹に手を振って見送った、ある夏のこと。





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