土曜日、晴天。 朝日が眩しく家屋の垣根を照らし、常緑樹のキンモクセイは青々と輝いている。まだ人も少ない澄んだ早朝から、影山茂夫は一人体操着姿で幼馴染である渡辺アカリに呼び出しを受けていた。今から何が起こるのか実は当人であるモブも分からないが、嫌な予感だけはひしひしと感じているところだった。 ただ、事の発端は昨日の下校中、自分がこぼした言葉にあったのだろうとモブは回想する。
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「ランニング、全然ついていけないんだ」
金曜日の通学路。 肉体改造部での疲労を引きずって帰路に着きながらそう呟いたモブに、隣に並んだアカリが思わず目を丸くした。 もちろんのこと、初めて自分の意思で入部した部活なのだから、早々に音を上げたわけではない。勉強も運動もさして出来はよくないモブは、怒られることになら耐性はあった。しかし肉改部のメンバーは強面の見た目に反してとても優しい性格の者ばかりで、明らかに体力面で劣るモブを気遣って親切にしてくれる。 それが余計に情けなくて、焦ってしまうのだ―――と言葉少なくそう告げた少年に、少女は非常に難しそうな顔をした。
「ンなもん、当然でしょ。はじめたばっかの時はみんなそうよ」 「……まあそうだね」 「大体今までマイナスってくらい運動できなかったんだし、ゼロに戻ったってだけで御の字―――あ〜〜〜ッ違う!うーーーんと……!」
突然気持ちが悪そうに叫びだしたアカリにモブはきょとんと不思議そうに首を傾げた。髪の毛を片手で乱し、思い通りに出てこない言葉に悔しがっているようだった。慰めるのには向いていない性格だというのは、本人が一番よく分かっているのだ。 素直に頑張れ、お前ならできると肩を叩いてやればいいのに、余計な言葉が口をつく。 きっとモブだって慰めを求めて言ったわけではないだろうけど、自分を変えたいと努力している姿を知っている分、応援したいという気持ちはあった。少し沈黙したあと、アカリは突然決心したようにモブの両肩を掴んだ。
「明日!」 「あ、明日?」 「私の家に来なさい!動きやすい服で、朝7時きっかりに!私は家で準備しとくから、絶対遅れるんじゃないわよ!!」 「えっ!?ちょ、どういう……」 「じゃあまたね!!」
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制止する声も聞かず豆粒のように小さくなるアカリの背中を見送り、あまりにも一方的な約束だろうと「一応」と来てしまうのがモブなのである。 立ち尽くしたまま躊躇ってまごついているうちに、時刻は約束の7時を少しばかり過ぎてしまった。慌ててインターホンを押すと、勢いよくドアが跳ね開いたと同時にあたりに怒号が響きわたった。
「遅いッ!7時きっかりと言っただろうが!!」 「ご、ごめん……あれ、アカリ何その恰好」 「アカリではない!私のことは今後上官と呼べ!!」
アカリはいつものセーラー服に何故か黒いジャケット(恐らく母親のスーツ)を羽織り、どこから持ってきたのか竹刀を片手で肩にかけている。威圧的に手を腰にやって仁王立ちをし、まるで古い時代の軍人のような調子で時間に遅れたモブを叱咤した。 そのあまりの剣幕に思わず背筋を正すと、アカリはモブの額に素早くハチマキを巻きつけた。格好からも伺えるが、何事も形から入るタイプらしい。
「ランニングについていけないとか言ってたわね……元々体力がないあんたがそうなるのは必然!他人より劣るならそれを上回る努力が不可欠!題して……『休日返上!地獄の特別訓練』よ!!!」 「…………また昔の漫画でも読んだの?」 「返事は『サー!』か『サーイエッサー!』だこのマヌケがァーーーッ!!!」 「サ、サーイエッサー!」
竹刀をコンクリートに叩きつける音が本気だったため、モブは慌てて敬礼と共に鬼軍曹と化した少女に屈服した。ギラギラと本当に燃えているような目に射抜かれ、仕方がないから飽きるまで付き合うかと内心で溜息をつく。アカリが何故こんなことをしているのか大体の想像はついたが、「火がついたら止まらない」のがこの少女である。 返事に満足そうにうなずくと、アカリは次に用意していた縄をモブの腰に巻きつけはじめた。しっかりと結ばれたそれの先を辿っていくと、大きなタイヤが繋がっていたので一瞬思考が停止する。
「アカ、……上官、これは……」 「うむ。まあ基本中の基本だけどウェイトつけてのランニングよ!これに慣れたら普通のランニングなんて楽勝でしょ!はい、とりあえず町内一周!!」 「えええぇ」 「返事は?」 「サーイエッサー……」
軽く言ってくれる! モブはとりあえず言われたとおり走り出してみると、ほとんど歩いているスピードと同じだが動けないということはなかった。意外といけるものだな、と調子に乗ってどんどん足を進める。それがいけなかった。タイヤの重みは進めば進むほど筋肉に負担をかけ、徐々に動くのが苦しくなってくる。 普通のランニングでもまだ人並み以下しか走れないモブがそんな状態で長時間動けるわけもなく、暫くすると完全に歩みが止まってしまった。燃える上官から檄が飛ぶ。
「どうしたどうしたァ!さっきから1mmも動いてないわよっ!!」 「ハァ、ハァ、う、動けな……」 「動けないィ〜〜?ったく軟弱ね……仕方ないわ、ちょっと助けてあげる」
休憩でも挟むのかと、ボーっとした頭でアカリの言葉を聞いていたモブは、不意に背中が急に暖かくなったような気がしてふと後ろを振り返る。 すると、腰に括りつけられたタイヤが背後でキャンプファイアーのごとく大炎上を繰り広げていた。迫りくる炎にさーっと顔色を悪くし、反射的に足が必死に動かして逃げようとする。どちらにせよ縄が繋がっているため火だるまのタイヤとは全く距離が広がっていないのだが、モブの生存本能がここにきて今日一番のダッシュを生み出した。 「ホ〜ラまだ動けるじゃないオホホホホ!!さあ限界まで走れ走れーーーーーッ!!」
本当に地獄だ。 ほとんど泣きながら死ぬ気で走っていた少年は、白目をむいて途切れそうな意識の中でそんなことを思った。
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「う〜〜ん……やりすぎたわね」
時刻は夕方の5時。 アカリは腕組みをして首を振り、完全に気絶してしまったモブを尻目に今更そんなことを口にした。 あのあとスパルタの勢いを増して続けられた特訓に、意外なことにモブは日が傾くこんな時間まで耐え抜いた。アカリも途中から思わぬ手応えにヒートアップし、文字通り心を鬼にしながら扱きに扱き抜いた結果がこれである。 「モブ〜?モブくーん?」 「…………」 「し、死んでる……」
少年の白目は答えず。 流石に体力のない貧弱少年には厳しかったかな、とやや反省の色を見せつつ、アカリは部屋に横たわったモブをひょいと軽く背負いあげた。明日は事務所にいく用事もないし、月曜日に謝ろう。謝ろうだとかお礼を言おうだとか、心で決意するようなことは、大抵本人を前にすると言えなくなってしまうのだけれど。
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