ぐう、と腹の虫が鳴った。 よく考えたら朝食を食べたばかりである。紙袋の中の弁当箱を見て首を捻り、まあいいかと誰にでもなく笑って誤魔化した。朝食は起きてすぐ食べるもので、昼食はチャイムが鳴ったら食べるものだ。 三日前に学校に置きっ放しだった鞄を回収し、さて、と2年1組の前に立ってにんまりとほくそ笑む。きっと心配しているであろうモブを脅かしてやろうと、抜き足差し足でゆっくりドアを開けた。
「……あれっ?席替えした?」 「影山なら昼休み始まってすぐどっか行きましたよ」 「ええーー!」
1組で弁当を食べていた犬山がひょいと顔を出して告げた。期待が外れて不満そうに声をあげ、アカリは口を尖らせて少年を手を振ったかと思えば、そのまますぐUターンをして二年の教室を後にする。 教師に呼び出されでもしたのだろうか、と首を傾げながら腕を頭の後ろにやる。弁当を鞄に放り込み、渡り廊下を抜けて階段を数段上った。すると通路を歩く目当ての後ろ頭を見つけ、ぱっと顔を明るくして大きく手を振る。
「おーいモブ!」 「……!!」
不自然に肩が跳ねた。 手すりから体を乗り出した少女を肉眼でとらえ、筋肉が硬直したように動けなくなる。元気に動く姿に安堵と躊躇いが入り混じり、そしてじわりと頬に汗を伝わせた。 その様子に気づかないままアカリは階段を下りて、黒い制服に近づいたとき。
少年は背を向けて逃げ出した。
「は?」
その勢いは脱兎のごとく。 無視されたような形で取り残され、呆然として一瞬立ち尽くす。鞄を手から取り落とし、拒否されたことに冷たい汗が滲み、ショックで動けなくなる―――ようなタイプではなかった。 廊下に手をついてしゃがみ、鬼ごっこは一気にスタートを切る。
「コルァアアモブーーッ何逃げてんのよアアーーン!!?」 「ヒィ……っ!」
考えるよりもまず動く。 "逃げる者は追う"という非常にシンプルな野性的本能に従い、廊下を蹴り出して目の前の背中を狩猟(ハント)するために追いかける。 捕まったら死ぬ。 猛獣に追いかけられて逃げ惑う小動物のごとく、モブはいつのまにか本気で走っていた。
「このアカリ様から逃げられるとでも思ってんのかァーーーッ!!!」
かたや素行の悪い女子生徒、地味な男子生徒。鬼の形相で追いかけっこをするアカリとモブは否応無しに他の生徒からの注目を集める。 多目的室側の階段を駆け上がり、途中で追い込まれてしまったと思ったが止まるわけにもいかない。踊り場を抜ければそこは、結局いつも通りの屋上だ。 手をかざして南京錠を解き、モブを迎え入れるようにドアが開く。勢いよく飛び込んで、鉄扉にさらなる侵入者を阻ませれば、背にしたそこから破壊的なノック音が響いた。
「ちょっとコラ!おい!私を締め出そうなんざいい度胸じゃないのモブくんよぉ!」 「僕は、」
少年にとってもそれは、ひどく衝動的なものだった。何事もないような顔で起きているアカリの無事をこの目でしっかり確かめたいのに、どうしても感情が追い付かずに逃げてしまったのだ。 昨日まで死体のように眠っていた姿、触れると冷たい手、浅く細い呼吸、血塗れの顔、全てがフラッシュバックして苛んだ。 口をついて出た、その言葉。
「僕はもう、アカリと一緒に居られない」
歯噛みしてドアを押さえ込む。 言った、と少年は腹の奥が痛くなるような、鉄の塊を抱え込んでいるような気持ちになった。すぐに反論してくるかと思ったのに、今回に限って声を上げない。
鉛より重い沈黙が走る。
反応のない少女に、まさかもう自分を置いて消えたのかと先程言った言葉も忘れてドアノブに手をかけたら、表面温度が一気に熱くなったのに気付く。 嫌な予感にさっと体を離した瞬間、南京錠と鎖で封鎖されていたはずのドアノブが真っ赤な溶岩のようにドロリと溶け落ちた。 穴から見える少女の顔は、誰がどう見ても、勘違いしようもなく―――激怒していた。
「シ〜ゲ〜オ〜………」
禍々しい炎が背に上がり、まさに怒髪天を突くと髪が舞い上がる。まだ衣替えも来ていない季節に、真夏ような温度がモブを襲った。 そして胸倉を掴み、アカリが頭を無言のままのけ反らせる。
ゴッ、と鈍い音。
「「〜〜〜〜ッ!!」」
二人で無言のまま身悶え、赤い額を押さえながら頭突きの余韻に苦しむ。アカリもここまで綺麗に決まるとは思っていなかったのか、やや涙目になりながら目をきつくした。 対する少年も薄らと雫を滲ませていて、それは痛みのせいではないとすぐ分かったので、怒鳴りつけようとした声が喉の奥で萎んだ。 それはそのまま、深い溜息に変わる。 「どうせ『僕のせいでアカリが怪我したからもう傍に居ないほうがいい』とかでしょ、言いたいのは」 「……そうだよ、アカリ、本当に死んだかと思ったんだ」 「そーよ、三日も眠っちゃって、あんたのせいよ」
歯に衣着せぬ物言いでアカリ少年を睨む。 力を暴走させてしまったのはテルで、アカリが怪我をしたのは自ら無茶をしたからで、モブがあまりにも強い超能力を持っているのは誰の所為でもない。 しかし彼がその力を持ってして、起こしてしまった事実は変わらない。少なくとも少年はそう思っていたし、少女は人を慰めるには愚直すぎた。
「でも、許してあげる」
だからこれは、慰めではない。 嘘を考えるのは頭だ。言葉は口にすれば真実味を失ってしまう。本当に心を伝えるのなら触れるのが一番いい。 少女の左手のひらには赤い亀裂が生々しく刻まれ、そして少年の右手にもまた、一部分だけ変色して引きつった、消えることのない傷跡がある。
アカリは俯いた少年の手を無造作に、それでいて風船に触るように触れた。
譲れなかった理由など、もう何年も前にアカリの胸に刻まれたものだった。シゲオが傷付くことが起こらないのが一番には違いないのに、かつて幼い彼がそうして自分を救ったように救えはしなかったのに、左手の熱は誇りに似たものさえ伴ってそこに在る。 それが少し可笑しくて、アカリはいつのまにか笑っていた。
「だって私達、これでおあいこでしょ」
少年は、呼吸を止めてしまった。 胸が苦しい。 握った手から、ゆっくりと熱と鼓動が伝わる。血が通い赤みの帯びた指先が、少女は間違いなく生きていることを体に伝える。ここにきてその事実がはじめて、現実味を持って少年に思い知らせる 本当にこの手を離してしまうことへの絶望を。 血塗れになった少女を抱えて、少年は確かに感じてしまった。こんなにことになっても傍に居てくれる存在への後ろ暗い喜びを。
傷つかないところで笑っていて欲しいと思うのも、ああ、決して嘘ではないのに。
「だから、大丈夫!」
―――例えば、その手が世界を滅茶苦茶に破壊し尽くそうとしても。
曇天の薄闇の中、少年は心を瞳から落とした。自分はいつか孤独を忘れて弱くなり、再びこんなことになったとき、同じように大切な人が傷つくかもしれないのに。 全てさらってしまう。 この声が、笑顔が、温もりが、暗い未来をどこかへやってしまう。それがたとえ「良くないこと」だと分かっていても、何もかも上手く行くではないかと、思わせてしまうから。 だから、こんなにも離れがたいのかと、彼女の手を強く握り返した。
「うん、………大丈夫」
それからゆっくりと、温い風が屋上に通る。にわか雨でも降り出しそうだった曇り空はいつのまにか晴れ間を見せていた。 ひどい泣き笑いの表情を見て一気に安堵したのか、アカリは弾かれたように少年に飛びついた。髪の毛をぐしゃぐしゃにして、ぎゃあぎゃあと罵りながら首たけに噛り付く。確かめるように、確かめさせるように。
例えばの話は止そう。 きっとこうして繰り返していくなら、その度につなげばいい。
だってもう、出逢ってしまったんだから。
The End
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