いつも通り。
 優しい日差しと、母の作る朝ご飯の香りで目が覚める。弟は既に身支度を整えていて、僕は慌てて服を着替えた。遅刻するよ、という気安い声に急かされて食べるのが早くなる。
 行ってきます。


 下駄箱で憧れの女の子に会った。彼女は友達に朝の挨拶をしながら、恥ずかしくて顔を上げられない僕に気付かず去っていく。
 いつ見てもとても可愛らしい少女を想いながら、おはようと言えばよかったかなと少しの後悔が募った。今度会ったらそうしよう。毎回同じ決意をしているけれど。
 上履きを履く。

 ああ、全てを手に入れたような気持ちだ!



 放課後になっても、特にやることはない。真っ直ぐ家に帰ってもいいし、寄り道をしてもいい。
 部活のある友人に手を振って、帰り道を一人歩く。いつも通り、なんの変哲もない午後の時間。一日が終わろうとする夕暮れ時。遊びに全力で打ちこんでいた幼いころ、夕暮れ時は理由もなく物悲しい気分を呼んだ。
 昼から夜へ、その橋のような時間。明るくも暗くもなく、ぼんやりとした橋を渡るとき、僕はいつもとぼとぼと一人だった。
 けれど寂しくはない。
 何も持っていないかわりに、何でもできるようになったから。


「本当に?」


 琴線をはじく、凛とした声。
 うっすらと世界を彷徨う影の輪郭が、徐々に濃くなっていく。長く長く伸びる黒い模様が爪先を舐め、その先には一人の少女がいた。
 今の時間を、逢魔が時というらしい。細くしなやかなシルエットは揺れ、墨を垂らし込んだ大きな瞳がこちらを射抜いても、別に怖いとは思わない。ただ僅かに懐かしかった。

「今、全部持ってると思う?」
「え?」
「最初から何もなかったほうが良かった?」

 わけもなくドキリとする。
 心臓が重くなったような感覚に、僅かに汗が噴き出した。少女は目を細めて、どうしてか堪らなく寂しそうに見える。
 おぼろげに見える顔。
 君は誰?

「私はこの街に帰ってきた」
「子供のころ離れ離れになって、ずっと会いたかった人がいたの」
「けど、見つからなくて」

 黄昏色に染まった、涙が頬を伝って落ちる。
 橙色から白く浮き上がるような手首が迫り、堅く握りしめた僕の手をとる。熱い温度。開きたくない。開いて"そうではない"と分かったとき、身を切り裂かれるような思いをすることを知っている。
 想い。思い出。
 僕の心の中だけにあるもの。
 同じ時間を過ごして、同じ人生を歩んでいても、心の中にあるものは決して同じではない。


「その男の子は、手に火傷がある」


 ねえ今幸せ?と少女が聞く。
 僕の掌には何もないから、頷くこともできずに、強く手を閉じた。




▲▼




「僕にもし超能力がなかったら、どうだったのかな」
「はぁ〜〜?何よ急に」
「いや、別に」

 いつも通りの昼食中。
 沈黙していたと思ったら突然そんなことを言いだした少年に少女は訝しげに首を傾げた。よく焼けたウインナーで口元を隠して、素面で食事を続ける。
 何かあったと大声で言っているようなものだ。少女は敢えて笑って茶化しながら肘で少年をつつく。

「怖い夢でも見たのー?超能力が使えなくてボコボコにされる夢とか?」
「そんなんじゃないよ。普通に学校行ってた」
「マジで?使えるのが当たり前すぎて想像できないけど、どうなんだろーね」

 超能力の使えない世界は、一体どういう風に見えるのだろうか。途方もない空想を思い浮かべ、やはり現実味を帯びないそれにアカリは唸る。それはそうだろう。当然と思っていることを消すのは、例えば自分が異性だったら、動物だったら、そのレベルの想像にすぎない。
 ただ夢に見てしまったから、こうして僅かな実感として残っている。モブの中でも、ただそれだけのことなのだ。

「いつも通りだったよ。ただ、僕はもうちょっと明るくて、友達と遊んだりしてた」
「ふーん、上手くいってた?」
「まあまあね」
「超能力がなくてもあんたが数学と体育できないのは変わらないと思うけどね!」

 ケラケラと笑い飛ばしながら、少年が超能力を持たない姿を想像する。今と大して変わらないように思う。モブは元々日常生活で力を行使することは殆どないし、頼ってしまうことを嫌っていたから。
 青空の下で卵焼きを掴みながら、アカリは考え込む。

「でも、モブのさ……超能力に頼りたくないって、ズルせず頑張ってるとこが好きだから」
「えっ!?」
「それが無くなるの、ちょっと―――ああ!?いや好きって別に変な意味じゃないからね!!」

 思わず顔を赤くしたモブに釣られて一気に赤面し、アカリは持っていた卵焼きを間抜けに開いた口に詰め込んだ。苦しそうにする少年にケッとふてぶてしい態度でそっぽを向いて、少女は勢いよく弁当をかっ込んでいった。

「まあともかく!超能力あってラッキーだったわねってことよ!!私のホカホカ弁当食べられるのも超能力の恩恵あってこそ!!」
「むぐゥウ……ッ」
「何よ文句あんの!」

 喉に詰まらせているモブの背中をバンバンと叩きながら、照れ隠しにしては激しすぎる攻撃に白目を剥きそうになった。
 口の中の卵焼きは甘めで、その美味しさに少し驚いた。少女は毎日自ら食事を作っているらしい。味わいながら暫し無言になって、掌をそっと覗き込んだ。
 そこには、古い火傷がある。

 
「だから……げっ!な、なな何泣いてんのよ、ちょっと」
「…………」
「あ、泣くほど美味しかった?」
「全然違う」
「おい!」

 美味しかったのは確かなのだけれど、悔ししかったのでつい憎まれ口を叩いた。滲む涙にアカリが慌てているのが可笑しいので、拭わないまま弁当を食べ進めたら、少し日焼けした手に前髪をぐちゃぐちゃにされる。
 浮かんだ笑顔と胸をかすめる記憶に、ぼんやりと目を細めた。
 想い。思い出。
 僕の心の中だけにあるもの。

(夢のようにはいかないな)

 どれもこれも、失うには口惜しいものばかりで。
 温もりと積み重ねた記憶を閉じ込めるように、少年は再び手を強く握った。



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