小さな泣き声がする。 真っ暗なような、それでいてぼんやりと明るいような、決して色を含まない空間を歩いている。足元を見ているつもりだが、爪先が見えるかといえばそうでもなかった。 細い細い涙声を頼りに、ひたすら歩を進めていく。
―――えーーん、えーーん
肩口で綺麗に切りそろえられた黒髪。赤いワンピースに、レースがついた白いシャツ。 幼い少女。 体を震わせながら、ごく小さな声で、大粒の涙を流しながらしゃくりあげている。それが何故かとても悲しくて、気付けば僕は思わず話しかけていた。
「アカリちゃん」
自然と出た名前に、自分で驚いてしまう。盤に水を張ったような黒々とした瞳も、驚いたように丸くなる。拍子にもう一粒ぽろりと雫が落ちた。 突然現れた知らない人物に、少女は不思議と怯えたりはせず、ただ無邪気に首を傾げた。
「お兄ちゃん、だあれ」 「僕は………」
僕は誰だっけ? 名前を思い出そうとして、色のなかった空間に朱色が混じってることに気付く。伸びる二つの影。目が潰れそうな強い夕陽。 どこから昇るのか、その強い光に目を眇めていたら、少女はいつのまにか涙を引っ込めていた。
「あのね」 「なあに」 「お兄ちゃん、わたしのいちばん大好きな、男の子ににてる」 「そうなんだ。君も、僕の一番大好きな女の子に似てるよ」 「おんなじ?」 「そう」
ふくふくとした小さな手を引いて、あてどなく歩いていく。どこまで続くのか分からない道を、二つの影が重なりながら、ただぽつぽつと何気ない会話をしていた。 やがて少し疲れたようにする少女を抱き上げて、歩くのを止める。 夕闇が迫っている。 もう帰らなきゃいけない。
「シゲちゃん」 「なあに」
裾を握る手。また落ちそうな涙。 でも、ああ、もう帰らなきゃ。
「どこにもいかないで」
帰らなきゃいけないんだ。
意識が浮上する。 朝焼けの海に部屋が沈んでいて、まだ起きる時間よりも随分早いことを悟る。一度体を起こして、その黎明が朝に変わるのを眺めていた。 ぱたりと布団に水玉が落ちる。
「どこかに行ったのは、君じゃないか」
この世界に朝がくる。 一体僕は、どこに行けばいいんだろう。
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