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大野が風邪を引いた。
主人である俺を殊更大事にしてくれる大野は、俺が生まれつき幾分虚弱体質だったのを未だに気にして、一定以上を越えた分の仕事は自分で代走しようとする。
その気遣いは惚れ直す程嬉しい――というか、そういうまめなところ諸々に惹かれたから、嬉しくない訳がない。でも、だからといって大野が俺の為に体調を崩すのは看過出来ないのだ。
「旦那様、大丈夫ですから……」
苦しそうに顔を歪め、生理的な涙で少し潤んだ黒い目で俺を見上げながら、大野が言う。
『使用人の部屋に旦那様が足を運ぶなど』と、対面した大野も他の気の優しい使用人達も揃って顔を顰めたが、構わず俺は大野の部屋に見舞いに押し掛けた。
発端は、朝食後に設定されている、今日一日の俺の予定を確認する時間に、うちのいつもの家令じゃなく大野の下に着いている子が来たから理由を尋ねてみたら、「大野さんは今風邪で寝込んで――」と説明してくれた事にある。それを聞いた直後、気弱そうな二十歳前後の青年をその場に残したまま、大野の部屋まで直行したのだ。
大野はとても優しくて、気配りが出来て……でも、奴の思考の根本にある『真さんは恋人である以前に仕えるべき主人だ』という常識は、壊せないままとなっている。
「そんないかにも病人という顔をしておいて、何処が大丈夫なんだ?」
「旦那様……」
困惑した、と言いたげに眉を顰め、しかし大野の柔らかな非難の声は、咳に遮られた。
この部屋で使用人同士の簡単な打ち合わせをするものなんだろう、シンプルな三脚組の応接セットのうち一脚を大野の枕元に運んできた俺は、辛そうな咳に無意味に椅子から腰を浮かせる。
でも、ベッドに横たわる大野は涙目で首を振った。濁点付きの咳を何度も繰り返しながら。
暫くして咳は止まったが、呼吸は喉の奥がすーすーと掠れるものだった。
俺は唇を噛み締め、咳込んで腹の辺りまでずり落ちた布団を大野の肩まで引き上げてやった。
「有り難う……御座います」
いつものはきはきとした声ではない、虚ろなそれで大野が言う。
俺は、気にするな、と笑った。上手く笑えていたのか、自信は無かったが。
「何かして欲しい事とか、欲しい物はあるか?」
俺が明るく尋ねると、大野は何故か苦笑を浮かべて、
「お仕事に、お戻り下さい……旦那様」