紙一重の劣情


「……あ」

 声が漏れた。

『ひァ…ィっ、あっ、あっ、ンぁっ! 晴…っお前、多少は落ち着…っくぅん!』
『伊織こそ、愉しんでるくせに』
『違ッ…馬鹿ぁアん! ふぁああ…っ』

 初めて知った。
 藍原指揮官と一ノ瀬さんは、そういう仲だったのか。
 所内を巡回中の夜更け、カーテン全開の室内から漏れ聞こえる何とも艶めかしい喘ぎ声につい意識が削がれる。
 普段は余裕綽綽な一ノ瀬さんがあんなにぎらついた眼をしていて、クールを通り越して俺は拒絶されているとばかり思っていた藍原指揮官は赤い顔を涙と唾液でぐちゃぐちゃに汚し、そこらの女より派手に鳴いている。

『――翔くん』

 ぞくりと情事中にだけ見せる、妖しい雄の色香を振り撒く隼人さんの幻聴が聞こえた。
 俺はゆっくりと深呼吸をし、身体が熱を帯びる事のない様、必要以上に任務に集中した。







「溝幡」

 名を呼ばれ振り向くと、案の定そこに居たのは藍原指揮官だった。

「お疲れ様です」
「ああ。お互いにな」

 微かに頷いてそう労って貰え、俺は昨晩の光景を頭から追い出しに掛かった。変な眼で彼を見てしまいかねない。
 指揮官は変わらぬ無表情で俺の隣に並び、「ところで」と話題を振った。

「九条とは上手くやっているのか?」

 ひと呼吸分の間が空いた。

「それは、どういう――?」
「『どういう』、とは?」

 逆に不思議そうに訊き返され、こっちが戸惑う。

「俺はただ、お前達が昔から仲が良いのを差しただけだ。特に深い意味は無い」
「あ……あ。そうですか」

 身体を重ねている関係で、あまつさえ隼人さんに告白された仲だと知った上での発言かと深読みしてしまった。
 落ち着け。俺は構わないが、男同士で掘ったり掘られたりしているのが広まったら、隼人さんに迷惑が掛かる。
 ――男同士で。
 そうか。一ノ瀬さんと恋仲である藍原指揮官なら、相談しても問題はないのか。

「あの、指揮官」
「なんだ?」

 正直に告げるには、何はなくとも人目がある。取り敢えず廊下の端へ彼を手招きしてから、俺は言った。

「男同士で恋人になるって、どんな気持ちですか?」

 藍原指揮官の動きが止まった。彼だけ時間の流れに弾かれた様に、それは劇的だった。
 指揮官はたっぷり三十秒固まり、次に柄にもなく両手をぶんぶん振り回した。

「な、違、俺は、違っ……晴とは、そんな、恋人……なんか、あの、」
「『晴』と呼び合う仲なんですね」

 ぱくぱくと金魚の様に口を開閉し、やがて指揮官は紅潮した顔で項垂れて小さく首肯した。

「……ああ。あいつは、俺の彼氏だ」

 彼氏。恥ずかしがりながらも臆面も無くそう呼べるのか。
 羨ましい。……羨ましい?
 それではまるで、俺が隼人さんをそう呼びたいみたいだ。そんなわけはないのに。
 隼人さんが最初の段階で諦念を持つ程、俺は兎に角何かに興味を示す事の無い、実につまらない人間だ。唯一それなりに執着しているのは、仕事と食事睡眠くらいか。
 隼人さんと至る時こそはしたなく嬌声を上げてしまうが、自慰に浸る事も数える程度の経験しかない。

「溝幡、すまないがこの話は――」
「え? ……ああ、はい。勿論他言はしません」

 黙考していた俺が頷くと、指揮官は幾分ほっとした表情を浮かべた。よく見れば口元も緩んでいる。
 恋、か。
 誰かを好きになるというのは、いつも仏頂面の人すら表情豊かにさせるのか。
 指揮官はそれ程、一ノ瀬さんを大切に想っているのか。

「ああ、そういえば、質問の答えを返していないな」

 彼が冷静さを取り戻した調子で言うので、俺は慌てて相槌を打った。

「はい。お願いします」
「……勿論、不安はある。一ノ瀬は……晴は、何を考えているか、大抵判らない。のらくらと俺の言葉を躱すのがあの馬鹿の趣味だ」

 藍原指揮官は腕を組み、壁に凭れた。
 吐き捨てる様な口振りの割には声音はやはり弾んでいて、俺は何故かまたそれを羨ましいと思った。

「同性同士など誰かに知れたら、途端に社会的地位も危うくなる。数々の偏見を受けそうだし、俺に限って言えば、他の何がしかを口実に更迭されてもおかしくない」

 けれど、と藍原指揮官は小さく笑った。

「無理なんだ。今更あいつを嫌うなんて、今の俺には」
「――」

 その笑顔は、とても綺麗に見えた。







 医務室のドアをノックすると、若い女性の応答があった。

「あら、溝幡くん」
「こんにちは。はや……九条先生はいらっしゃいますか」

 ええ、と彼女はにこやかに微笑み、白いカーテンの引かれたベッドを指差した。

「お疲れみたいね。顔色が優れないのに無理をなさろうとするから、一時間余り前に休憩を取って貰ったの」
「そうですか。有り難う御座います」

 看護師に礼を言い、俺は真っ直ぐそのベッドへ足を向けた。
 無造作にカーテンを捲る。その隙間に身を滑らせ、気持ち良さそうに眠る隼人さんを眺めた。
 微かに唇を開き、穏やかに眼を閉じる彼。少し笑っている様にも見える顔に、俺も釣られて口元を緩めた。
 寝相が良いとは言い難い。布団を抱き枕代わりに横向きで寝息を立てる彼の傍らに佇み、さり気なく身体を屈めた。
 額にキスする。
 隼人さんは昔から、俺にそうしてくれたから。

「んー……」

 寝込みを襲ったのはこれでお互い様だ。
 だから、先日のあれが尾を引くのはこれっきりにして、彼を許してあげよう。
 俺はただそれっぽっちで満足して、笑って踵を返した。



「……可愛いなあ、もう。ベッドに引き摺り込まないだけ、感謝して欲しいよ」




Fin.



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