ギリィ…、と唇を噛み締めて平腹さんを睨みつける。わたしの怒りは収まることをしらない。怒りの矛先である当の平腹さんは、なんの気にも留めないでヒマだヒマだと繰り返しているので大したダメージは与えられていないようだけど、それでもわたしはそうやって発散しなければやっていけないのであった。

「あれ、平腹もいたんだ」
「おお、佐疫ー!待ちくたびれた!」
「…ん?そっちは…」

闇の中から現れた、なんだかとっても優しそうな獄卒さん。もしかして彼が佐疫さんというのだろうか?うんうん、確かにピアノが上手そうな雰囲気だ。
彼はこの場に平腹さんがいるとは思わなかったのか、少し目を丸くしてそう言った。その後に流れるようにわたしに視線が移動して、目が合う。柔和な顔立ちに、わたしの先ほどまでの憤りは、ずうっと遠くへ飛んでいきそうだった。
でも、彼の目は先ほどよりもさらに驚愕というか、奇妙なものでも見ているかのように見開かれて、気まずい。わ、わたしなにかしたかな。「オレが拾った!」佐疫さんの変化に気がついていないのか、平腹さんは平然と失礼なことを言ってのけるけど、そんな彼の言葉にすら佐疫さんは反応しなかった。なにかを見透かされるような視線で、注意深く、そして観察されるように凝視される。
「…君は、」ここでようやく佐疫さんの口が開かれた。しかし彼はなにか言いたげな表情を浮かべながらも、結局言葉は飲み込まれてしまったようで、そのなにかがなんなのかを知ることはできなかった。

「…、あ。いや…僕は佐疫」
「!わたし、ナマエです!」

やっとにっこりと笑顔を見せてくれた佐疫さん。不穏な空気にいろいろと心配したけど、今はもう大丈夫…なのかな。
それにしても獄卒とは思えない、神々しい笑みだ。わたしの心はみるみる浄化されていく。「平腹に何か乱暴されてない?」おまけに初対面の亡者の心配までしてくれて、ほう…そうか…ここが天国…。
しかし、ぐわんぐわん!と横から頭を鷲づかみにされて揺らされる。…ハン!今のわたしは佐疫さんのパワーによって、なんでも受け入れられるのだ。だから今回は、平腹さんのこの粗暴な扱いも深い懐で許してあげようじゃない。

「平腹、やめてあげなよ。彼女は女の子なんだから」
「わあ優しい…!すき!」
「……」
「ところで。ピアノを弾きに来たのはいいけど、楽譜がないみたいだね」
「佐疫さんなら、なくても弾けちゃいそうです」
「ふふ、ありがとう。でも恥ずかしながら、ピアノはまだ練習中なものでね。それは難しいかな」
「そうなんですね〜。ほかには、なにか演奏できるものってあるんですか?」
「ラッパは吹けるよ」
「いつか聞いてみたいなあ」
「そうなったら中々忙しいことになってるけどね」
「?」
「僕のラッパは人を裁くものであり、地獄を守るためのものでもあるから」

佐疫さんは微笑みながら、そう教えてくれた。



佐疫さんとの会話に盛り上がっていると、やがて斬島さんも現れた。でも、ピアノを演奏しようにも肝心の楽譜がなければ話にならない。佐疫さんがその旨を斬島さんに伝えると、彼はまた回れ右をしてそれを探しに向かう。なんだか彼にばかり働かせてしまっているようで、申し訳なくなってくる。
でも、楽譜は存外簡単に見つかったようで、斬島さんはものの数分で戻ってきた。無事発見された楽譜が佐疫さんの手に渡り、彼が椅子に腰かける。念願の伴奏タイムが始まるのだ。

佐疫さんがひとつ、息を吐いた。ここから先に進むためには、彼の演奏が欠かせない。少しだけ緊張した面持ちで、綺麗な手が鍵盤の上に置かれる。そしてなめらかな動きで音楽が奏でられ始めた。
芸術を感じさせられる動き、音。そして、ピアノを弾く佐疫さんがまた絵になっている。美しいとしか形容のしようがないその光景に、わたしは目を奪われた。…天使だ。天使がここにいる。彼の作り出す雰囲気に、わたしは完全にのまれていた。身体全体で、彼の生み出す音楽を感じていたのだ。
しぃん…と、演奏が終わって部屋が静かになる。その直後に湧きあがる拍手喝采。わたしも堪らなくなって拍手をした。すごい、佐疫さんすごい!わたしは音楽には全然詳しくないけど、彼のピアノがとっても素敵であったことは分かった。
拍手や歓声が収まった後、ガチャンと施錠が外れる音が響く。どうやら、この部屋の主は佐疫さんの演奏に満足してくれたみたい。

「佐疫、助かった。悪いな」
「どういたしまして」

斬島さんはそう言うと、さっさと扉の先へと進んで行ってしまった。
わたしはというと、胸の高鳴りが止まらない。だって本当に、さっきの伴奏はすごかったのだ。うまいことは言えないけど、心の底から感動するような、そんな感じ。まだ心臓がどきどきしてる。

「さ、佐疫さん、すごかったです…」
「そんなことないよ」
「いいえ!だって、本当に素敵でした…!」
「…なんだか照れるね」

ありがとう。そう言ってふわりと微笑んだ佐疫さんに、ばくばくと心臓がはやまって、なぜかわたしまで照れてきた。どうしてだろう?…まさか、これが彼のパワーなのか。「…ナマエちゃんはさ」椅子に座りながら佐疫さんが声をかけてくる。首を傾げてどうしたんですか、という意思表示をすると、彼は続けた。

「どうして死んじゃったの?」

わたしの死因?…まさかそんなことを訊ねられるとは思わなかったので、言葉につまった。
正直な話、わたしは自分が死んだときのことをよく覚えていないのだ。ただわかるのは、電車に轢かれてしまったということだけ。ホームに落ちたその瞬間に、視界いっぱいに広がる光。あれはきっと電車のライト。車体とぶつかる直前の光景はうっすらと思い出すことができるけど、そこに至る経緯については、どうもさっぱりだ。靄がかかったようにぼんやりしている。

「電車に轢かれちゃったみたいで」
「その時、何か変わったことはなかった?」
「?…ご、ごめんなさい。わたし、あんまり詳しく覚えていなくて…」
「…そっか。変なこと聞いてごめんね」

よしよし、と頭を撫でられた。身体が熱くなって、思わず両手で覆う。こういうことをさりげなくする佐疫さん…さぞかしモテることだろう。女の子は頭を撫でられることが好きであるという特徴を、よくご存じのようだ。
嬉しさやら恥ずかしさやらで内心パンクしそうなわたしを他所に、佐疫さんが立ち上がる。どこかに行くんですか?そう質問をする前に、彼は「僕も斬島の後を追うよ。もしかしたら、何か出来ることがあるかもしれないし」と言った。い、いいひとだぁ…。そうして佐疫さんもこの部屋を去り、わたしと平腹さんが残されたのだ。

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