お尻、背中、後頭部の順番で鈍い痛みが走り、強制的に意識が浮上させられた。いたい…顔を歪めて目を開くと、なんだか明るい。そして、どうやらわたしは床に寝っ転がっているらしい。目の前にはあの獄卒さんの背中が見える。…ははあ、なるほど。わたしは落とされたわけだ。ははあ…。別に泣きそうになんてなってない…。
腰をさすりながらゆっくりと立ち上がると、この部屋には火のついた蝋燭があった。だから明るかったのか。今まで真っ暗闇の中にいたせいか、そのほのかな明かりにさえも少し眩しく感じる。
ぐるりと周りを見渡してみれば、突っ立っている獄卒さんの前に黒くて大きな何かが置かれていることに気がついた。なんだろうと思いつつ隣に行ってみると、それはどうやらピアノのよう。

「どうしてこんなところにピアノ…?」
「コレ弾かねーと先に行けないらしいぜ」
「…獄卒さん、弾けるんですか?」
「平腹」

ひ、ひらはら?なにそれ?よく分からないので「はあ、」と曖昧な返事をすると、ぐりんっとこちらを振り返った獄卒さんが「オレ、平腹!」と。蝋燭で照らされたこの部屋の、その微々たる光で明るみに出た彼の顔には絶妙に影がかかっていて、なんというか…コワッ。

「オマエは?」
「?」
「だーかーらー!オマエの名前!」

平腹さんが名前を訊ねてきた。知らないひとに自分の個人情報を与えるのは危ない。いや…わたしと平腹さんは一応ここまで共に移動してきた関係だけども。それにしたってほぼ初対面といっても過言ではない相手だ。う〜ん…。

「オレあんま気ィ長くないんだけど」
「ひっ、あ、ああの、ナマエです」

葛藤を続けるわたしを捕らえるのは、瞳孔の開きかかった黄色の瞳。それによってわたしの悩みは四方八方に飛び散って粉々になったのだった。

「ナマエ、ピアノ弾けないの?」
「習ってない、です…」
「……」
「…ひえ、ご、ごめんなさい!」

ジィーッと視線が突き刺さる。演奏できないわたしを責めているのか。でも、できないものはできないのだ。なんなら平腹さんが弾けばいい。わたしの立場になってみればいい。なんて、言えないけど…。

「お、斬島ぁああー!!」
「!?」

な、なんだいきなり!大声を上げた平腹さんに、心臓が飛び跳ねた。影に向かって手を振る彼の視線の先は、一体なにが存在するのか。わたしにはまだ見えない。
カツカツという足音が少しずつわたしたちに近づいてきて、蝋燭で照らされる範囲内に登場したのは。忘れもしない、あのときの青い目の獄卒さんだった。

「平腹か。…お前は」
「さ、さっきぶりです…」
「なぁ斬島〜黒板見た?ピアノ弾いてくれなきゃ、この部屋通してくれないってさ」
「今しがた来たばかりだから見てないが、そうなのか」
「オマエ弾ける?」
「無理だ」

青い目の彼が斬島さんというのか。どうやら彼もピアノを弾く技術はないみたいだ。「詰んだな!」平腹さんが言う。本当にそうだ。諦めて帰ろう。せめてわたしだけでも。

「誰かに頼めばいいだろう。打開策を考えろ」
「んー…誰いる?」
「佐疫が習っていたはずだ」
「お!さすが!呼んできて斬島!」
「俺が行くのか」
「?そうだろ?」
「……」

そう言われた斬島さんは、特に文句を零すことなく回れ右をした。…やっぱり、彼はいい獄卒なのかなぁ。あのときも、急いでいたようなのにわざわざわたしに謝ってくれたし。平腹さんとは違ってね…。
斬島さんの遠ざかる足音が完全に消えた。さっき二人の会話に出てきた…さえきさん?がピアノを弾けるようなので、つまりわたしたちは彼の到着まで待機ということになる。…本当、わたしがここにいる必要性って皆無だと思う。

「ナマエ、ナマエ」
「へ、はい…?」
「なんか弾いてよ」
「!?…む、無理ですので!本当!」
「だってヒマだろ〜」

まったく話を聞かない平腹さんめ!ぐいぐいとピアノの前に立たされて、肩に体重をかけられて椅子に座らされた。えっいや…だから弾けないって言ってるのに…。

「早く!早く!」

平腹さんがあまりにも急かすので、わたしはしぶしぶ記憶の底から誰しもが知るであろう有名なかえるの合唱をひねり出し、演奏した。…けども、やはりそんなもので満足してもらえるはずがなく。伴奏が終わった後つかの間の静寂が部屋に広がり、ブーイングが聞こえたと思ったら、数多の椅子がわたしめがけて飛んできたのである。あんなの直撃したら痛いどころじゃすまない。わたしは床に蹲り、寿命が縮まるような恐怖体験を乗り切った。死んでいるから寿命もへったくれもないんだけど。
しかし横の方から、平腹さんのたいそう楽し気な笑い声が聞こえる。こ、このぉ〜…許さないんだからな…。いつか仕返しをしてやる。そう誓った。

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