平腹さんはシャベルで狒狒の腕を切断している。刃物で切るよりも手間と時間がかかっているせいか、狒狒の口からは耳を塞ぎたくなるような悲鳴が溢れている。切断された腕からは大量の血が噴き出ていて、わたしは恐ろしくなった。窮地を救ってくれた平腹さんだけど、このようなことを平気で成すあたり、やはり普通のひとではないということか。狒狒も地獄の“鬼”と言っていたし、そこらへんの感覚はわたしとは異なっているのだろう。
「うーん、なかなか面倒な数だなあ」木舌さんが大斧を振り回しコールタールを抹消しつつそう言う。のんびりした口調とは裏腹に、動きは俊敏なものだった。

「ナマエ。ちゃんと後ろに隠れててね」
「は、はい」

わたしは戦うみなさんの邪魔にならないように小さくなっていることしかできなかった。
「次は頭でもやるか!」どうやら狒狒の両腕を切断し終えたらしい平腹さんは、次は頭部と胴体を切り離すつもりらしい。しかしさすがにシャベルという決して鋭利ではないもので両腕を切断した疲労が溜まったのか、狒狒の身体の上に固定していた足を下ろし、汗を拭っている。
すると突然狒狒が立ち上がった。「ッやべ、」気の緩んでいた平腹さんの対応が遅れる、わたしは目を反らせない、足が動かない、両腕を失くした狒狒が目にも留まらぬ速さで走ってきてわたしの首元に噛みついた。ぶつっという皮膚に穴が開く音。ついで激痛が走る。

「は??なにしてくれてんの?」

すかさずシャベルでフルスイングしてわたしから狒狒を無理やり引き離した。ぶちり、皮膚が引き剥がされる。「い、ったあ…」ヒリヒリ、じんじんとした痛みに思わず眉根を寄せた。

「先に足やっとくべきだった!」

平腹さんは吹き飛んだ狒狒の元へ駆け寄ると、作戦を変更し両足を切断することにしたようだった。「けどよくよく考えてみればそうだよなー。頭やっちまえば即死だもんな!」笑いながらそう言う平腹さんは、いつまでたっても見慣れない笑顔を浮かべ、どこか楽しげに大腿部をごりごりと切り離し始めるのだった。
それにしても首が痛い。皮膚が剥がされたのだから当然といえば当然だった。つい顔をしかめる。

「痛い…」
「ナマエちゃん、大丈夫?」
「佐疫さん…」
「全部終わったら診てもらおうか」

銃でコールタールを撃ちつつもどこか余裕をもった佐疫さんが話しかけてきた。「病院があるんだよ。そこに行こう。なにか良からぬものに感染しても怖いからね」こんな状況でも柔らかな笑みを浮かべる佐疫さんはすごいなあと思った。
周囲を見渡せば、どうやらコールタールの数も、心なしか少なくなってきている。

「大分減ってきたな」
「本体が弱ってきてるからな」
「おい平腹。あとどれくらいだ」
「あと頭だけ!」

気がつけば、狒狒は両腕両足を切断されていた。爛々とした瞳で最後の仕上げ、頭部と胴体を切り離す作業になってからは、もう直視できたものではなかった。狒狒はもはや叫び声をあげる体力すら残ってないらしく、ただ呻く声だけが聴こえてくる。
やがて平腹さんが「あ、死んじまった」とつまらなさそうな声色で呟く。そこでようやく様子を伺うと、そこには血だまりしか残っていなかった。周囲に集まってきていたコールタールも、一匹残らず駆除されたらしい。

「みんなお疲れさま」
「ああ。そこまで手のかかる任務ではなかったな」
「だる。はやく帰ろうぜ」
「帰るのは血痕を始末してからだ」
「ひと仕事終えた後の酒はうまさが段違いなんだよね」

皆が一様に仕事の完遂に浸っていると、平腹さんだけは残った血痕を踏みにじっている。ただ無表情に、ぐりぐりと憎しみを込めて、怨嗟を込めて。わたしは及び腰になりながらも、平腹さんの元へ駆け寄る。「ひ、平腹さん」すると彼は振り返って満面の笑みを浮かべた。返り血を浴びている以上、純粋な笑みには到底見えなかったけど。

「ぶっ殺したら少しはスッキリした!」
「は、はい。よかったです」
「これで任務は終わったわけだけど、結局ナマエの魂は戻ってこないことがわかったね」
「病院に行った時先生に訊いてみてるといいよ。なにか知っているかもしれない」
「それは良案だな」
「どうでもいいけど早く帰ろうぜ。腹減った」
「血痕は跡形もなく処理した。帰るぞ」

谷裂さんがいつのまにかホームのあちこちに飛び散っていた血痕を綺麗にしたらしい。いつもと同じ…わたしが使っていた頃と同じ、ふつうの駅のホームに戻った。

「さあ、帰ろう」

佐疫さんがそう言うと空間に裂け目ができ、みんながぞろぞろとその中へ入って行く。わたしは自分が死んだ駅だけど、どこか名残惜しさを覚え、線路を見つめる。思い残すことはなにもない。…なにも、ないのかな。わからない。ただ、殺されて半亡者になった実感が湧いてくる。その事実がひどく虚しく感じられた。そんな気持ちを抱きながらぼんやりと立っていると、やがて声をかけられ、後ろ髪引かれる思いでわたしも裂け目の中へと続いたのだった。



「首はこの薬を塗っておけば治るが、魂に関してはどうしようもない」

病院へ連れてきてもらって、開口一番がその言葉だった。
皮膚が引きちぎられた首を消毒されガーゼで覆ってもらうと同時に、先生はわたしの魂にひどく興味を持ったようだった。珍しいものを見るような視線(目は見えないけど、たしかに視線を感じる)が突き刺さる。「先生ェ〜あんまりじろじろ見んなよ」病院へ同伴してくれた平腹さんがなぜかそんなことを言う。見てもらわないと診察できないのに。
本当は佐疫さんが連れてきてくれるはずだったのだけど、帰宅後斬島さんと谷裂さんは鍛錬へ励み、田噛さんは睡眠を貪り、木舌さんはどのお酒を飲むか吟味し始めたので、報告書をまとめるのが佐疫さんか平腹さんしかいなかったのだ。もちろん平腹さんはそういうお仕事は苦手なわけで、必然的に佐疫さんが報告書の作成を引き受けることになる。それで、わたしは平腹さんに連れられ病院へやってきたのだ。

「んじゃあ半分になった魂はこのままってこと?」
「その通りだ。私に出来ることは何もない」
「ナマエって死ねるの?」
「私の見解では、死んでしまうと“無”になると考えられる」
「それってどういう意味?」
「これもまた憶測でしかないが、生きていたこと自体が“無”になる。つまり、君が生きていた証も記憶もなにもかもが失われるということだ」
「げっマジで!?オレらの記憶からも!?」
「恐らくは。魄はその人物の“総べて”を成す。それくらいのことが起きてもおかしくはない」
「マジかよー!!!」
「平腹さん。院内ではお静かにお願いいたしますわ」

この病院の看護婦長である水銀さんが粛々とそう言うのにも構わず、平腹さんは「じゃあぜってえ死なせられないじゃん!」と頭を抱えて言う。その反応はなんだろう。まるでわたしのことを殺したがっているように聞こえる…。するとわたしの視線と平腹さんの視線がぶつかる。彼は焦ったように言った。

「ナマエも見たことあるだろ?オレが谷裂にぶっ殺されたところ」
「そう、ですね。あります」
「そういうのってオレたちにとっては日常的なところがあるからさあ。下手こいてナマエまで巻き込んじゃったらやべえよ」

喧嘩をしないという選択肢はないのだろうか。なんて考えていると、平腹さんは突然「どっかに閉じ込めておけばいいのかなー」なんて物騒なことを言い始めた!わたしは焦った。そんな、ひとりの人間として、半亡者としての扱いをしてもらいたかった。個室が使いたいとかそんな大層なことは望まない。ただ、ふつうに生活できればそれだけでいいのに。

「半亡者とはいえ人権はあるだろう」

ここで、なんと先生が助け舟を出してくれた。先生は続ける。「お気に入りなのであれば尚更重要視するべきことだと私は思うがね」お気に入り?首を傾げていると、「じゃあオレがナマエが死なねえように守ればいっか!」となんとも恐ろしい答えがでてしまった。
獄卒さんたちのなかで一番わたしのことを殺してしまいそうなのは平腹さんなのに!なんて、絶対言えないけど。

「なあ、これからナマエのことはオレが守るよ」

けれど、そう言った平腹さんの笑顔は今まで見たことのない柔らかなものだったから、わたしはつい頷いてしまったのだった。

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