電車が迫ってくる。ああ、そうだ、わたしは殺されたんだった、どうして今まで忘れていたのだろう。でも不思議と、殺した人への恨みは抱いていない。…きっと、撥ねられたら痛いんだろうなあ。できるのだったら痛みを感じる間もなく死なせてほしい。
…死なせてほしい?死にたい?わたしは死にたいの?…ううん、そんなわけない。

「死にたくない…!」

死にたくなんてない。もう死にたくなんて、ないに決まっている。でも、駄目だ。わたしは死んでしまうのだろう。涙腺が緩む。誰もいない空間に左手を伸ばす。誰でもいいから引き上げてほしかった。助けてほしかった。しかし手は虚しくも空を切る。「いやだ…やだ…死にたくない…!」大粒の涙がぼろぼろと目から落ちる。視界が滲む。お願いだから、だれか、手をつかんで…。

「……ッナマエ!!」

何もない、空虚な空間が綺麗に裂ける。誰かがわたしの名前を呼ぶのが聞こえた。それから伸ばした手への温もりを感じる。「離すなよ!」ぐいっと引っ張り上げられて、わたしはホームへと倒れ込んだ。その瞬間電車が通り過ぎ、風で髪の毛がなびく。

「あ…っぶねえええ!!死ぬかと思った!!」
「…平腹、さん?」
「ナマエ、怪我ない?大丈夫??」

わたしを引き上げてくれたのは平腹さんだった。「ひ、ひらはらさあん…」ありがとう。なんて、そんな言葉では足りなかった。それでも口をついてでるのはありきたりな感謝の言葉だけで。「…っありがとう、ございます…ほんとう、ほんとうに、死ぬかと思いました…」繋いだ左手が温かかった。寂しさを覚えたのも、もしかしたら寝ている間に平腹さんが手を繋いでいてくれたからなのかもしれない、なんて思う。そんなことはないのに。
ごつごつした左手を両手でぎゅうっと握ると、平腹さんはギクリと硬直している。それでもわたしは手を離したくなかった。

「わたしを、助けてくれて、ありがとうございます」
「あんま泣くなって。干からびたらどうすんの?」
「…す、すみません、でも、止まらなくっ、て、…」
「……」

すると平腹さんは暫しの間考え込んだ様子を見せたのち、わたしの背中に腕を回した。がっしりとした体格はわたしのことをすんなりと受け入れる。温かな体に身を包まれて、わたしはひどく安心した。背中を上下にさすられ、段々と呼吸も元どおりになっていく。「…マジ、生きててよかったあ」はああ、と重いため息をつきながら平腹さんは言う。生きててよかったって、そう言ってもらえると思わなかった。嬉しさのあまり心がじんわりと温かくなる。

「わたし、死ぬのがこわいって、そう思ったんです。それで、誰かに助けを求めました。…平腹さん、わたしの手をとってくださってありがとうございます」

平腹さんの胸を押し顔を上げる。黄色い目を見つめ無理やり口角をあげて笑うと、彼は急に落ち着かない素振りを見せた。どうしたんだろうと思いじいっと見つめると、もう一度ぎゅうっと抱きしめられる。「オレ、あいつぶっ殺してくるから、ナマエの仇とってくるから。…だから、待ってて」乱暴に頭を撫でられ、そして体が離れる。温もりが失われて、またどこか寂しさを覚えた。

「感動の再会は済ませたかい?」
「感動と言うほどか?ついさっきまで共にいたんだろう」
「これで目標はあと一つになったな」
「やっぱりナマエ泣いちゃってたね」
「おう。とりあえずあいつぶっ殺す」
「おいテメー。いつまで人間面するつもりだ?さっさと正体現せや」

田噛さんが気怠そうにそう言うと、男性はクスクスと笑い始める。「何が可笑しい」田噛さんがそれにイライラと反応すると、男性は口を開いて言った。「その子の魂は二度と元に戻らない」その発言に獄卒さんたちはぴくりと眉を動かす。

「どういう意味だ?」
「私が喰ってしまった。実に美味だった」
「そもそも霊魂に手を出すなんてそう生半可な方法ではうまくいかない。ひどい執念を持っていたように見受けられる」
「“見受けられる”のではない。事実、そう───」

突如、平腹さんが大きく一歩を踏み出し、シャベルで相手の顔面を強打した。わたしを殺そうとした人物なのに、あまりに痛々しくて思わず両手で両目を覆う。次の瞬間には、男性は遥か後方へと吹っ飛んでいた。そしてぼたぼた滴り落ちる鼻血を拭いながらよろよろと立ち上がる。

「ぐちぐちうっせえなあ」
「平腹。強制送還させるつもりかい?」
「当たり前じゃん」
「頭部と胴体と四肢。好きなところを分け合おうよ」
「ならオレ全部ほしい」
「話にならんな。冷静さを欠くと痛い目を見るぞ」
「いいから。オレにやらせてよ」
「…仕方ない。俺達は後方で援護しよう」

どうやら何を言っても聞かないらしい。佐疫さんたちはどこか呆れた様子で後方へと下がる。「楽に死ねると思うなよ」そう言うや否や、平腹さんは男性の襟元を掴み顔面を殴った。地面に倒れてもその上に跨り殴り続ける。もはやどちらが悪役かわからないまでに。

「ひ、平腹さん…」
「ナマエ、危ないからもうちょっと遠くにいこうか」
「木舌さん、あの、大丈夫なんですか?」
「それは平腹のこと?それとも怪異の方?」
「ええと、その、両方…」
「平腹は満足いくまでああなんじゃないかなあ。怪異は強制送還されるみたいだし、多分…と言うか絶対見ない方がいいと思うよ」

木舌さんに従いわたしはもう少し遠くの方へと離されることになった。その間も平腹さんは相手の顔を殴り続けている。あたりには血が飛び散っていた。
すると、男性は突然平腹さんの顔面を殴りつけ反撃した。思いもよらない行動だったのか、平腹さんは後ろへひっくり返る。「調子に乗るなよ地獄の鬼が」ぱんぱんと服についた砂利をはたき落としながらそう言った男性は、みるみる姿形を変えていく。

「……猿、?」
「─── ああ、狒狒だ」

狒狒。猿のような風貌に姿を変えた、というよりは本来の姿を現した相手は、ひっくり返っていた平腹さんの右腕を掴み、あらぬ方向へと折り曲げた。ボキン、なんて音が聞こえそうだった。

「あめえよ」

するとすかさず平腹さんは立ち上がり、折れた方の腕で狒狒と呼ばれた男性を殴りつけた。「い、痛い…」わたしは思わずそう呟く。一体どのような痛覚をしているのか、もしくは怒りのあまり痛覚が鈍っているのか。もしかすると両方かもしれない。
しかし次の瞬間には折れた腕は治っていた。驚異的な回復力に、彼は今とんでもない興奮のなかにいるのだろうと思う。
男性はまたもひっくり返り、頭を地面に強打する。意識が飛んだのか、今度はなかなか立ち上がらない。

やがて平腹さんは血の混じった唾を吐き出すと、落ちていたシャベルを拾い上げ、「まずは腕一本!」と言いながら嬉々として男性の胴体に足を乗せ動かないよう固定すると、左腕にシャベルを突き立てた。ごりごり、音を立てながら肉を、筋を、骨を削る音が辺りに響き渡るようだった。

「平腹。狒狒の急所は」
「ナマ言うなよ佐疫ィ。急所狙ったらつまんねえだろ」
「…怪力な狒狒に真っ向から戦うって、さすがというかなんというか」
「怪力馬鹿め」
「そこが平腹の長所でもあるな」
「長所かあれ」

平腹さんは口を開いている合間も手を止めることはない。狒狒は苦しそうにもがいているけど、どうしても抜け出せないようで、苦しむ声が口から溢れている。
すると、気がつけば周囲が騒がしくなってきた。見渡すと、コールタールのような黒い物体が集まってきている。ぞろぞろと奇妙な音をたてて動くその物体は、体表を敷きつめるほどの目玉を持っていた。「ひっ」そのうちの一体がわたしのそばまで迫ってきており、後ずさる。けれど、ひとつ瞬きをすると、その黒い物体は消滅していた。

「平腹はあっちに集中してるし、雑魚はおれ達が相手しないとね」

そう言いながら大斧を構えている木舌さんに、わたしはちゃんとお仕事できるんだ、なんて、麻痺した頭でちょっと失礼なことを考えたのだった。

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