一枚の封筒。落ちた反動で中身が足元に散らばった。黒に視線が縫い付けられる。逸らしたいのに逸らせない。わたしはそれを知っている。知っていたはずだったのに。



開眼して真っ先に襲いかかってきたのは疲労感だった。ずしりと身体が重い。まるで地面に縫合されてしまっているかのような感覚だった。運動していたわけでもないのに加速しきっている鼓動は、目覚めて早々気持ちのいいものではなかった。
悪い夢でも、みていたような気がする。思い出せない。うすぼんやりとした記憶は形を成さないままだ。
ままならない思考はさておき、徐々に落ち着きを取り戻し始めた心臓にはひとまず安堵した。そして溜めていた息を吐き出しながら生地の薄い掛け物をのけ、ゆっくりと身体を起こせば、喉奥から悲鳴が飛び出しそうになった。だって、視界の中に。

「ひ、…!?」

横になっていたわたしの大腿部の上に突っ伏して、安らかな寝息を立てている平腹さんの姿があったからだ!
全身がいやに重かったのも、地面と一体化してしまった錯覚を抱いたのも、夢見が悪かったような気がするのも、なにもかも。きっと彼の仕業に違いない。全体重を預けられるというあまりの寝苦しさによって、うなされるはめになったのだろう。

ともあれ、叫びそうになってしまった自分の口を咄嗟に手で覆うという機転を利かせたのは、正しい判断であると思う。なぜなら、相手があの平腹さんである以上、眠っているところを不可抗力とはいえ叩き起こすだなんて…それはもう…とても恐ろしいことになるに違いないからだ…。わたしの本能がそう泣きわめいている。頭の中で警報が鳴り響き続けているのだから。
そうは言っても、ずっとこの状況でいるのもつらいものがある。でも起こせない。どうしたらいいの。困り果て、起きて起きてと念じた視線を平腹さんの寝顔に降り注いでいると、思いが通じたのか閉ざされていた瞼が上げられた。そこから黄色い瞳が覗く。「あ、」ついそんな声を漏らし、固唾を呑んだ。どうしてこんなに緊張しなければいけないのかなんて、考えるまでもない。平腹さんがこわいからだ。
ぎしぎしと軋む心臓に嫌な汗をかきながらも、目の前で開眼している平腹さんから目を逸らせない。それも何かあったときのためである。とはいえ、何かあったとしても、逃げられる可能性は限りなく低いのだけど…。
寝ぼけ眼はぱちりとまばたきをした後に、ぎょろりと常の輝きを取り戻した。それから周囲の状況を確認するかのように動き、視線が絡む。途端にぐわっと目が大きく開けられた。こわい!しかし息をのむ間もなく平腹さんはがばっと起き上がり、ぐうんと距離を縮められる。

「ナマエ!おはよう!」
「ひい…おはようございます…」
「ひでえ顔だな!?」
「…!?」

朝から心に突き刺さる言葉をいただいてしまった。そんなの、わかりきっていることなのに。ずうんと沈んでいると、平腹さんは「もしかして、あんま寝れてない?それとも木舌のせい?死にそうな顔してる」と言った。どこからつっこみを入れたらいいのだろう。

「…あの、わたし、もう死んでいるはずなのですが…」
「ん?んー…なんか…ちがう」
「ちがう?」
「うまいこと言えねえけどさぁ…う〜ん?」

腕組みをしながら唸り始めた平腹さんは、怪訝な顔をして思索にふける様子を見せた。ここでようやく落ち着けるくらいの距離を取り戻したけど、その代わりにわたしが置いてけぼりだ。
所在なく、何とはなしに現在いる部屋を見回してみると、今さらながらここが平腹さんの部屋ではないことに気がついた。誰かの私室のようには見えない。例えるなら、学校の保健室のような。
きょろきょろと忙しなく周囲を見やるわたしに気がついたのか、隣から「ここ医務室!」と声が上がった。医務室…どうしてわたしが、そんなところに?疑問符が次々と頭の中に浮かぶ。絡まる記憶の糸をたぐり寄せ、少しずつほどいていくと、思い出されるのは昨日の夕食のことだ。わたしが勝手に居心地の悪さを感じて、そんな自分に嫌気がさして、逃げるように飲み物を一気に流し込んで、そこから先の記憶はない。

「一体何が…」
「木舌の酒飲んでぶっ倒れた」
「お酒ですか!?」
「佐疫が医務室行った方がいいって言ったから、オレがここまで連れてきたわけ!」
「すみません…。…え、え、でも…」

昨日の夜、自爆してみなさんに迷惑をかけ、医務室で朝を迎えた。その医務室に運んでくれたのが、平腹さんらしい。でも、朝目が覚めたら彼はすでに寝落ちしていたような状態でここにいた。ということは?

「平腹さん、もしかして、ずっとここに」
「そうだけど」
「ええっ!?」
「でも途中からオレも寝ちゃってたみたいだなー」
「…わ、わかりません」
「?なにが?」

わからない。平腹さんという人物が、わからない。出会った当初は読めない行動に恐怖し、昨日は底知れない残虐性を持ち合わせていることを突きつけられ恐怖し、そんな恐怖だらけの物騒な性質に生きた心地のしない時間を過ごしていたというのに、今はそこはかとなく優しい。気がする。
いいや、違う。わたしは忘れない…忘れてはいけない。以前に頬を食い千切られそうになったことを。
でも、いざこうして考えてみれば、よくわからないのは平腹さんだけではない。他の獄卒の方々もだ。昨日のお仕事の様子を見るに、彼らは亡者を捕まえ相応の刑罰を処する手助けをする立場にあるはず。そこに慈悲なんてものはなかった。だからこわくなった。いずれは自分も彼らのようになるのだと、そう自己投影して、こわくなってこわくなって、だからこそ現状から逃げ出したくなっている。最後には亡者同等の扱いをするくらいなら、最初からもっと粗末に対応してくれたらいいのに。そうしたらこんなに苦しくないはずなのに。勘違いしてしまいそうになる。

「ここまでしてもらえる義理って、ないんじゃないかなって…わたし、亡者みたいな存在なのに」
「オレ、ナマエは亡者じゃないって聞いた」
「…でも、限りなくそれに近いじゃないですか」
「それで?ナマエは何が言いたいの?」
「えっ、ええと…ここまで丁寧に対応してもらっていながら、こんなことを言うなんておこがましいとは思うのですが…あの、もっと、こう、妥当な感じの扱い方があるんじゃないかなあと」
「ハッキリ言わないとオレわかんない」
「だ、だから、そのぅ…」
「んー?」

だ、だめだぁ…。平腹さんに遠回しに話しても伝わる気配がない。わたしだって、ずうずうしいことを言っているという自覚はある。そのせいでこんなにも婉曲的な言い回しになってしまうのだ。
しかし、今わたしが言わんとしていることは、今後の自分のためでもある。一世一代の主張のつもりだった。自分の立場を顧みたら、こんなこと声を大にして言えたことではないから。
だけど平腹さんは本当にピンときていないらしく、口角を上げながら首をかしげている。どことなく理解しようともしていない風にも見えたのは、きっと彼の浮かべている表情が原因だと思う。
すると唐突に、平腹さんが「あのとき廃校でさぁ」と切り出した。先ほどまでの話題とどのように繋がるのか理解が難しいけど、平腹さんのことだから、あまり深い意味はないのかもしれない。

「ナマエを拾ったのってオレだろ?」
「その言い方いやです…やだ…」
「んで、最初にナマエを見つけたのもオレ」
「本当は斬島さんで」
「オレだって」
「ひっごめんなさい」
「じゃあそれでいいじゃん」
「…?何がいいんですか…?」

わたしがそう訊ねたら、平腹さんは鋭利な歯を覗かせながら笑った。この人がよくわからないのは今に始まったことではないけど、でも、彼の目だけはその表情と見合っていないように見えて、やっぱりわたしはこの黄色の瞳が得意ではないなあと思った。

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