鏡に映った自分の姿をみて、ごくりと唾液を飲みこんだ。
わたしにはお風呂に入る前にひとつ、越えるべき障壁があった。それは、頬の絆創膏を剥がすこと。今まで傷跡がどのような状態にあるのか確認する術がなかったものだから、お初にお目にかかることになる。忘れはしない、今朝のあの激痛。絆創膏の下は、目を覆いたくなるような光景が隠れているに違いないのだ。
緊張と恐怖のせいで震える指を駆使して、ぺり、ぺり、と少しずつ剥がしていく。そして、案の定わたしは大きな衝撃をうけることとなった。穴が、開いている。そりゃあ尖りに尖った歯でブチリとやられたのだから、きっとこういうことになっているのだろうなあとは予測していたけど、でも。覚悟していたとはいえ、自分の頬にこんな傷がついているだなんて、やはりショックは大きかった。
…傷跡、残ったらいやだなあ。場所が顔である以上、否応でもひとの目につくところだから隠しようもない。平腹さんめ、なんてことをしてくれたんだ。彼のことだから、わたしがなんて言おうとなんのお詫びもしてくれないのだろうけど。わたしはこの形容しがたい気持ちを吐き出すことも許されず、ただ傷跡が残らないように祈るばかりである。

しかし、そんなもやもやした気持ちも広いお風呂に入って温まっている内に、どこかへと消え去ってしまったのだった。



お風呂からあがると着替えが用意されていた。動きやすそうなラフな格好だ。わたしが脱いだ制服は、あやこさんの言った通りにすでに回収されたらしく、なくなっている。ありがたみを感じつつ服を着て、わたしはいそいそと浴場を後にした。
慣れた足取りでお屋敷の中を歩く。なんか、不思議な感じ。死んでいるのに、まるで生きているみたいな生活。怪我をしたら血は出るし、ご飯もおいしく食べられるし、お風呂も気持ちよかったし。命を落としてしまったひとたちは、みんなこういう死後の世界に存在しているのだろうか。…いいや、きっと違う。今朝、肋角さんの言っていたことを忘れてはいけないのだ。本来なら、死んだ人間は冥府に送られ転生を迎える定めにあるのだから。この状況を普通だと受け入れてはいけない。わたしはみんなから一歩、あるいはそれ以上の距離を置くべき存在。自惚れては駄目だ。
沈みこみつつある思考を振り払うようにして足を動かし、やがてたどり着いた食堂に入れば、既にわたし以外のメンバーが席についていた。みんなもお風呂上りなのか、あの制服ではなくて部屋着を身につけている。
ふと視線を移した先のテーブルには、大きな鍋。すごい量…。のろのろとみんなの元に歩いていくと、木舌さんが気がついて手招きしてくれたので、引き寄せられるようにして近づく。そうしたら彼は隣の椅子を引いて「ここ、どうぞ」と言ってくれたので、お言葉に甘えて座らせてもらうことにした。木舌さんの顔はあいかわらずほんのり赤い。お風呂上りだからかな。そう思ったけど、ふんわりと香ってくるのは他ならぬアルコールの香り。やはり彼は酔っぱらっているのだ。正常な木舌さんの様子が想像できない。わたしがそんな彼と顔を合わせるときなんて、一生訪れない気がする。
もう片側の席には光輝いた目で鍋を見つめている平腹さんがいる。う〜ん、この組み合わせはどうも今朝のことを彷彿とさせるので、あんまり気が楽ではないなぁ…。
それぞれの目の前に置かれた取り皿に具を盛り付けてくれているのは、当然と言うべきか佐疫さんで。本当に計り知れない女子力をお持ちだ。本来なら女であるわたしがこういうことをするべきだと思ったので、もし次にこういう機会があったら率先してやらせていただこう。よくしてもらっているせめてものお返しに、それくらいのお手伝いは許してほしい。
みんなの食べる分を取り分けてもなお、鍋には具が多く残っている。これ、ちゃんと全部食べられるのだろうか。

「全員揃ったね。さあ、食べようか」

佐疫さんがそう言うとみんなが礼儀正しく両手を合わせたので、わたしも彼らを見習って手を合わせた。いただきます!みんなの声が重なって、たったそれだけのことなのに無性に懐かしいと感じた。
この場にいるメンバーでテーブルを囲み食事をすることは初めてのはずなのに、こんなにも居心地がいい。そんな風に感じているのはわたしだけかもしれない。みんな顔には出さないだけで、実際はわたしを早くこのお屋敷から追い出したいと思っているかもしれない。わたしとの関係なんて、みんなにとっては長い時間のなかのほんの一瞬に過ぎない、本当にちっぽけなものだ。いつかは終わりを迎えてしまう関係、絶たなければならない関係だけど、この関わりを少しくらいは幸せに思ってもいいかなあ。

「お前、ナマエと言ったか」

正面に座っている斬島さんが右手に箸を、左手に湯気が立っている取り皿を持ちながら話しかけてきた。自然と下がっていた視線を上げて彼の方に顔を向け、「はい、そうです」とうなずく。そういえば斬島さんとこうしてお話するのは初だ。正直廃校で殺されかけた恐ろしい思い出があるので、苦手意識を持ちつつある。

「肋角さんから話は聞いた」
「そうですか…」
「ああ。これから俺達の目の届く範囲に置いておけ、と」
「すみません、よろしくお願いします」
「?…なぜ謝る。そうするべきは俺の方だ。すまなかった」
「…えっ?そ、それこそなんで…?」

もぐもぐと具を咀嚼する斬島さんは少しだけかわいい。でも彼が何に謝罪を述べているのか分からず、思わず首を傾げる。口内にある食べ物を飲み込んでから、斬島さんは再び口を開いた。お行儀がいいひとだ。

「廃校で殺してしまいそうになっただろう」
「…あ、ああ…そのこと…」
「あの時は気が昂ぶっていて気がつけなかった。言い訳になるかも知れないが、今回のような事態は前代未聞でな。経験不足とはいえ、最良の判断を下すことができなかった俺には多大なる責任がある」
「でも、亡者を冥府に送るのが獄卒の仕事でしょう?」
「ナマエは亡者ではないだろう」
「…ま、まぁ厳密にはそうみたいですけど…」
「悪かった」
「あの…そんなに謝らなくても大丈夫ですから」
「それでは俺の気が済まない」
「……」

何だかむずむずする。確かに、正確に言えばわたしは亡者ではない。しかし限りなくそれに近しい存在ではあるのに。斬島さんは至極真面目な顔つきでそう言ってくれたけど、この場合は一体どうしたら。「ふ、ふふ」考えあぐねていると、くすくすと笑い声を抑えたような声が聞こえた。斬島さんの隣に座っている佐疫さんの声だ。彼は肩を震わせておかしそうにしている。

「斬島は真面目だから」
「…んん…そうみたいですね」

他愛ないやり取り。けど、これもいつまで続くか。楽しいひとときにもかかわらず、頭の片隅に居座って離れてくれないのは、そのことばかり。内心では未来に怯えて悶々と考えこんでいるわたしに、佐疫さんは声をかけてくれる。「ナマエちゃん。改めて、これからよろしくね」その言葉に他意はないのだろうけど、今のあさましい心では隠された意味があるようにしか捉えることができなくて、そんな自分に吐き気がして、頷いてからごまかすように近くにあったコップを手に取って入っていた水を一気に飲み干した。そうしたらなぜか喉がヒリヒリと焼けつくような痛みが襲いかかる。食道に絡みつく熱に思い切りむせた。なんだか頭がぐらぐらする、ような。

「あれ?ナマエ、それ…おれの酒…」

木舌さんの声が、随分遠くから聞こえた気がした。

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