獄卒が亡者を冥府に送ったところは初めて見たけど、それはあまりに恐ろしいもので、どうやらわたしには刺激が強すぎたらしい。考えまいとしても、先ほどの光景がぐるぐると脳内でフラッシュバックしてしまうのだ。
平腹さんは普段から何を考えているのか分からないし、突然痛いことをしてくるし、こわいひとだと認識はしていた。でも、あれはもはや、そういう次元の話ではないのだと、思う。亡者をスコップで殴り続けていた彼の様子は、まさに狂気と言い表すのが妥当で。まるで何か悪いものに憑依されてしまったかのような振る舞いは、恐怖の対象でしかなかった。
幸いというべきか、無我夢中で武器を振り下ろしていた最中の平腹さんの顔は、倒れていた位置が彼の後方だったことにより窺えなかった。だけど、わたしはむしろそのことに安堵している。なぜならあのときの平腹さんは、この世の何よりも凄まじい表情をしているという確信があったからだ。そんなものを目にした暁には、きっと彼とろくに目も合わせられない身体になっていたことと思う。現時点で既に視線を交わすのが難しいときもあるというのに。
とにかく、わたしはひとつの結論を導き出した。獄卒という存在にとって、亡者は無下に扱ってなんぼの存在なのだろう、と。そう思わざるを得ない…と言うよりは、そう思わせられた光景だった。わたしがお屋敷のみんなに親切にしてもらえているのは、本当に例外中の例外に違いない。そうだ。そういえば肋角さんも、そのように言っていたし。半亡者であったからこそ、あの神主の亡者のような痛々しい目に遭わずにすんでいるのだ。
もしわたしがあの廃校で斬島さんや平腹さんに会ったとき、完全な亡者だったら。そう考えて、背筋に冷たい汗が伝った。わたしはどこぞの誰かがかけてくれた呪いに、ある意味で感謝するべきなのかもしれない。しかし、この厄介な問題もいずれは解決してしまう。わたしが痛い目を見ずにいられる時間、安全が保障されている時間は期限つきなのだ。そして期限が切れてしまったら、そのときは。

「…殺されるのかも…!」
「誰に?」

任務を完了して廃神社から撤退しお屋敷に向かっている途中に、ひたすらそのことについて考えていた。今後自分の身に降りかかるであろう最低最悪の事態を想像して、思わずつぶやいた独り言に反応したのは、隣にいた平腹さんだ。彼の目は興奮がぬけきっていないのか、いやにぎらついている。いやだなぁ、こわい。彼の獣のような双眸が、どうしてもあの果てしなく惨憺な場面を彷彿とさせるのだ。顔にまで飛び散っていた血液は袖で拭ったらしく多少綺麗になっていたけど、それでも恐怖を感じるには十分すぎる瞳だ。

「なぁ誰に殺されんの」
「…なんでも、ないです…」

まさかあなたに、なんて言えるわけがない。今の平腹さんは下手に刺激しない方がいい気がする。昨日今日で、わたしは色々と学んだのである。なんとかこの場を切り抜けようと、無難にごまかしの笑みを浮かべながらそう言ったら、彼はパチパチと瞬きをしてから口角を吊り上げた。なぜこのタイミングで笑顔になるの。意味がわからない。こわい。やはり、彼はわたしを葬り去りたいと…。「にしても、田噛も酷いよなぁ」どん底に落ちる思考が、平腹さんのその言葉によって引きあげられた。

「あ?」
「だぁってさ〜フツーナマエまで使う?オレはああいう感じに使われんの慣れてっけどさ、ナマエはオレらと違って死んじゃうんだろ?それって危なくね?」
「死ぬ危険性が皆無だと判断した結果の行動だ。肋角さんからそういう命が下ってんだから、そんなヘマする訳ねぇ」
「そうなの?」
「そうだよ」

そうなんだ。わたしも初めて知った。田噛さん何にも言ってくれなかったから、てっきり見捨てられたのかと思った。
確かに、頬の傷口を広げるかのようにぐりぐりとされたのは激痛だったけど、だからといって死にそうにはならなかった。とはいえ、激痛に苦しむ羽目にはなったわけで。…田噛さん、そこまでは考えてくれなかったのかなぁ…。なんて、さすがにそれは高望みしすぎかもしれない。
結局、あの亡者はお祓いに関する未練に囚われて、世をさまよい続けていたということなのか。そしてあの場に、その未練を解決に導くのにもってこいの存在であったわたしがいた。田噛さんはそれを利用し、自分の体力を消耗することなく任務を完遂するつもりだったのだ。その方法は、きっとあの亡者にも本望だったに違いない。だけど、結果的に平腹さんの手によって冥府に強制送還されるという結果になってしまった。それって、あの亡者の境遇を考えたら、実はとても気の毒なことのように思える。本当はあんなに痛そうな目に遭わずにすんでいたかもしれないのに。…でも、平腹さんが手を出してくれたことによって、わたしが痛みから解放されたのも事実だ。誰かの苦痛があって今のわたしがいるだなんて、なんだか心底喜べるようなことではないと感じてしまったけど、こういう風に考えてしまうのって間違えてるのかな。

「つーか、亡者がいる所にコイツを同行させたお前の方がよっぽど危ねえよ。色々とな」

田噛さんが正論を言った。そうだ、その通りだ!わたしは勢いよく首を縦に振る。
よくよく考えてみれば、わたしがあんなにも苦しめられた原因は、平腹さんにあった。今の今まで、あまりの苦境のせいですっかり忘れていた。彼がわたしを廃神社なんて場所に連れてこなければ、こんなことは起こりえなかったのである!
いざ危険な目に遭ったら、それなりに手荒な方法ではあったけど助けてくれた。それが平腹さんの仕事の内だとは知っていても、死なずに済んだのだから嬉しいし、感謝もしている。だけど、助けてくれるのならそもそも、そんな危ない場所に連れてこなければいいのに。やはり、平腹さんはよくわからないひとだ。
考えれば考えるほど、平腹さんのつかめない性格に悩まされる。そうしてうんうんと唸っていれば、側頭部に刺さる誰かの視線。パッと顔を上げて横をむいたら、田噛さんと目が合い、「けど、そうだな」と相変わらず面倒くさそうに口を開いた。

「場合によっちゃ使えるな、お前」
「!?」
「えー!やめろよ!ナマエはオレの!!」
「!?!?」
「誰も俺のなんて言ってねぇよ」
「ナマエ好きにしていいのオレだけ」
「勝手にしろ」

平腹さんはいつもの笑顔を浮かべながらそう言った。それが当たり前なことだと主張するかのようにあまりに自然な流れで話されたので、愕然しつつももはや何も言えない。どこまで本気なのか見当もつかない。まず平腹さんの思考を汲みとることが間違っているのかも。
そこでふと思い出されたのは、わたしが平腹さんと廃校で初めて顔を合わせたときのこと。そういえばわたし、彼のパシリということになっていたのだった。その割にはパシリのように扱われてこなかったので、すっかり忘れていた。
そのことをふまえると、つまり平腹さんは、わたしをパシリとして連れているだけあってこき使いたいと。…い、いやだ。何をされるのだろう。それに、なんだか田噛さんまで不穏な言葉を発していたし。わたしは今、性急に、心のオアシスを求めている。…いいやそもそも、忘れかけていたけどここは地獄。そんなところに安らげるような場所があるわけがない。

「…あ、お屋敷だ…」

悲しい現実から逃げるようにして正面に向き直ると、恋しくて堪らなかったお屋敷が見えた。いつのまにか近くまで来ていたみたい。わたしたちはそのまま玄関に向かって歩いていき、扉を開いた。田噛さんが疲れたような溜息をついたのが聞こえたけど、彼は一体何に疲労しているのだ。どちらかというと、わたしの方が疲れている立場なのに。
そのまま玄関を通って廊下を進んでいけば、肋角さんの部屋の扉が開かれて、中から誰かが出てきた。見覚えのある羽織だなぁ、そう思っていたら、そのひとがわたしたちの存在に気がついてこちらを振り向く。

「佐疫さん!おかえりなさい!」

わたしの目に間違いはなかった。彼は朝仕事に出かけた佐疫さんだったのだ。駆け寄って声をかけたら、彼も笑顔で「ただいま」と返してくれて、心がじんわりする。久しぶりに目にした怖くない笑顔に、果てしなく癒される。

地獄にもオアシス、ありました。



「さて。これは一体どういうことか説明してもらおうか」
「……いいか佐疫。先に言っておくが、俺は忠告はした。オイ平腹てめぇ」
「…んー…なんていうか…アレ…」

平腹さんって、佐疫さんと会うたびになにかしら怒られている気がする。現に今も、わたしを強制的に廃神社に連れて行ったことに関してのお叱りをうけている。佐疫さんのまなざしは、ただひたすらに冷たかった。わたしがその視線に射抜かれていたわけではなかったというのに、彼の凍てついた瞳は平腹さんの瞳孔が開いたそれとはまた異なった恐ろしさがあり、少しだけ泣きたくなった。
常時というわけではないけど、亡者を閻魔庁に連れて行くことになっていた今回のような仕事に関しては、いつどんな予測外のことが起こるかわからないし危険性を孕むということで、肋角さんの命のことを考えたら“普通”はわたしを同行させるだなんて有り得ないと佐疫さんは言っていた。平腹さんは普通じゃないんだ…。やはり、彼はどこかずれているひとなんだ。ようやくわたしの考えが正常だと証明されて安心した。

「ほら、頬に怪我もしてる」

綺麗な指が頬に触れた。音もなく伸ばされたものだったから、驚いて思わず肩が跳ねる。びっくりした。佐疫さんは、先ほどの冷えきった視線とは打って変わって、心配そうにわたしの頬を覗き込んでいる。どうやら、彼はこの傷が廃神社で負ったものだと思っているみたい。今朝佐疫さんと最後に顔を合わせたときは、傷なんてなかったのだから当たり前だ。わたしは訂正しようと思って口を開く。

「いいえ、あの…この傷は」
「…………」
「ひ」
「ナマエちゃん?」
「!…い、いいえ!なんでもないです…やっぱり、その…神社で」

転びました。尻すぼみになっていく語尾、もはや最後の“た”は発音することができなかった。だって、ジィーッとこちらを穴をあける勢いで見つめてくる平腹さんの目がイッてしまっている。まるで真実を語るなと、告げ口をしたその後には覚えてろよ、と瞳で訴えかけてきているのだ。目は口ほどに物を言う、まさにそれ。
佐疫さんはわたしの変化に気がついたのか怪訝そうな顔をした。しかし彼が次の言葉を紡ぐその前に、「オレら肋角さんに報告してこないと!なァ田噛!」と平腹さんは言い放つ。そうしてこの場から逃げるかのように、二人は肋角さんの部屋の扉をノックし、中へと消えて行ったのだった。

「…なんだあれ」
「……」
「ナマエちゃん、傷は痛まない?絆創膏に血が滲んでるけど」
「今は随分治まりました…」
「そっか、よかった。ここには絆創膏くらいしか治療道具がないからさ。ほら、僕達は軽症ならすぐに治癒しちゃうから、基本必要なくて」
「そうですよね、すごいなあ…。…あれ?でもそれって、絆創膏じゃどうにもならない怪我をしたとき、どうするんですか?」
「ああ、そういう場合は病院に行くよ。流石に肉塊になられたら元に戻るまで時間がかかるし、それなりの設備も必要になってくるから」
「…肉…塊…!?」

そんな状態になっても生き返る獄卒がこわいと思った。そして脳裏を過ぎる、廃神社でまさにその肉塊状態にされた亡者の姿。思い出された光景にガタガタしていると、佐疫さんが「…あ、そうだ。ナマエちゃん、服も結構汚れているみたいだし、お風呂にいってきたら?」と言った。

「お風呂?」
「うん。僕が案内するから入っておいでよ。夕飯まで時間もあるしね」
「でも、あの…」

たしかに廃神社では地面に倒れたせいで服も汚れているし、嫌な汗もかいたものだから、お風呂があるのなら入りたいとは思う。しかし、肝心の着替えがないのだ。見たところこのお屋敷には女性の獄卒さんもいないようだし、服を借りることができない以上、折角の提案だけどすぐには頷けない。
ううん、と悩んでいたら「着替えのことなら心配ないよ」と言われた。わたし何も言っていないのに、本当に佐疫さんは察しがいいなぁ。だけど、着替えの心配がないって、つまりわたしが借りてもいい服があるということだろうか。

「実は家政婦に頼んでおいたんだ。ここに女の子が滞在することになるから、生活するのに不便がないように最低限の必需品を準備しておいてってね」

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