平腹さんが地面にシャベルを突き立て、ザクッと土がえぐられる音がした。それに反応したのか、カラスに似た風貌の、闇に溶けこめそうなほど真黒な鳥がどこからともなく飛び立っていく。ギャアギャアと辺りに響き渡る耳障りな鳴き声は、まるで断末魔の悲鳴のよう。少なくとも耳あたりのいい声とは言えず、わたしは反射的に両耳を手で覆って縮こまった。
平腹さんと田噛さん、それからなぜかわたしを含めた三人の目の前に聳え立っているのは、色あせた赤い鳥居だ。ぼんやりと外観を確認できる神社は、廃れているというだけあってやっぱりボロボロで、今にも崩れ落ちそうな朽ち果てている様子が窺える。気管支に纏わりつくような異様な空気に、身体を支配するのは息苦しさ。わたしの頭の中ではここから逃げろと警報が鳴り響いていた。しかしそれは、平腹さんがいる限り叶う訳がないのであった。
神社の周囲には人手の行きわたっていない伸び切った雑草や枯れた木々に加え、よく分からない石像みたいなものも転がっている。ここら辺を漂う雰囲気は、異様だ。人肌のような温さを交えた風が時折吹き付ける。皮膚の上を転がる不快極まりない気体に、わたしの心は既に限界を迎えそうだった。もうなにもかもがこわい。帰りたい…。

「思ったより小せぇな」

だるそうに田噛さんは言った。全然物怖じしていない感じだ。きっと、こういう現場に慣れているのだろう。わたしのようにビクビクと怯えている様子を見せられても、それはそれで怖いものがあるけど…。
恐怖心とは一切無縁そうな平腹さんに至っては、爛々とした瞳であちらこちらを見まわしている。その表情の、なんと楽しそうなこと。わたしには到底理解できない。まだ鳥居をくぐっていないというのに膝はガクガクしているし、肌は総毛立っているし、一刻も早くこの場から逃げ去りたい。少し前までは脱走を図ったはずのあのお屋敷が、今は恋しくて堪らなかった。

「…あーっ!!」
「っっっ!!」
「うるせえ」
「今なんかいた!見た?なぁ見た??」
「見つけたんならさっさと捕まえてこい」

平腹さんは「行くぜオラァー!」と叫ぶと、何の躊躇もなしに真っ直ぐ拝殿の方へ走って行った。そのとき、わたしも無理矢理引っ張られて引きずられて行くのかと思ったけど、そんなことはなかった。ほっと胸を撫で下ろす。今回ばかりは本当に駄目。足がすっかりすくんでいるので、平腹さんの動きに付いていけずに雷が落とされることは容易に想像できるからである。でも、一体なぜだろう。そりゃあ力ずくで連れて行かれなくて安心したけど、平腹さんは基本、それこそ今のようにわたしの意思を完全に無視して同行を強制するような行動をとるのに。獲物を見つけてわたしに構っている余裕はないということかな。今や彼の瞳には、捕獲するべき亡者の姿しか映っていないと…。なんというか、彼に捕まる亡者って可哀想だなあ。
この場にわたしと一緒に残された田噛さんはといえば、後を追おうともせずに立ち尽くしている。彼にここから離れられると、わたしは一人になってしまうので、奥に進まないならそれはそれでとっても嬉しい。だけど、どうしたのだろう。田噛さんがここに残る理由は、なんだろうか。ま…まさか…ここら辺にもなにかいるの?田噛さんは無言なので、わたしの想像が勝手に一人走りする。ゾッとしてぶんぶん首を振って左右を確認。でも広がるのは不気味な暗闇だけ。そういえばまだ夜ではないのに、夜だと錯覚してしまうほどこの周辺は暗かった。これも亡者のせいなのかな…。「おい」ひゅうっと息を飲む。心臓がひっくり返ったかと思った。まさか話しかけられるとは予想だにしなかったので、こちらを振り向いた田噛さんには情けない姿をお披露目する羽目になってしまった。案の定、彼は怪訝な表情でこちらを見ていた。

「お前の後ろ」
「あっうぅうしろっ!?」

なに、どうしたの、うしろがなに。なにかいるの!?がっくんがっくんする足をなんとか動かして前進する。失礼ながら田噛さんの隣にピタリとくっついて加速する鼓動と比例して荒れる呼吸を整えようと深呼吸をした、けど、うまくいかない。ゼーゼーと全力疾走した後のように息をしながら田噛さんを見る。後ろはこわくて見れない。すると田噛さんは表情を変えないままわたしをチラリと一瞥し、口を開いた。

「なにもいねぇな」
「…………そうですか」

そうですか。



足掻き虚しく、わたしは田噛さんと鳥居の下を潜って神社の敷地内に足を踏み入れてしまった。
本殿の前にある階段に一緒に腰かけながら、亡者を捕獲するために消えた平腹さんの帰りを待つ。廃れているのは階段も例外ではなく、デコボコで歪だから座り心地はよくない。それでも力の入らない膝には優しいことに違いはなかった。
血液がうまく循環していないのか、足先は冷え切って通常の感覚を失いつつあるので、半ば意識をボーッとさせながら膝をさする。はやく帰宅したい、わたしの気持ちはそれでいっぱいだった。切実な願いを胸の内に秘めていたら、「帰りたいなぁ」と、まるで息をするように溢していて、ハッとして手で口を覆う。この言葉は、お仕事の最中である田噛さんの目の前で言うべき言葉ではない。途端に湧き上がる罪悪感に苛まれていると、田噛さんは予想の斜め上を行くことを口にした。

「帰りてぇなら帰ればいいだろ」
「えっ」

いつも面倒くさい、だるいの倦怠感に満ち溢れた返事しか聞かないものだから驚きだ。そんな彼が、帰っていいと許可してくれたのだ。しかし、じゃあお言葉に甘えて、そう思った次の瞬間に「帰り道分かってんならな」と言われ、わたしは上げようと思った腰を再び地面に下ろすことになったのだった。勿論帰り方なんて分からなかったのだ。

「大体何に怯えてんだよ」
「…だって、ここ、いやな感じがするし、こわいから…」
「亡者がいるからっつー理由なら、自分もそれと類似した存在である事忘れてんじゃねぇぞ」
「ええと…」
「此処にはお前みたいな不届きものがいるだけだ。そこまで戦慄する必要あんのか」
「…わ、わたし、なんにも悪いことはしてないです…」
「…あー…そういやそうだった」
「…でも、あの」
「……」
「もしかして、励まそうとしてくれたんですか…?」

わたしのその言葉に田噛さんは反応を示さなかったけど、たぶんこれは彼なりの気遣いなのだと思った。でも、激励してもらったとはいえ申し訳ないけどこわいものはこわいのだ。そればっかりはどうしようもない。自分が死んでいるからと言って、亡者だとか幽霊だとかが怖くなくなるとは一概には言えない。中にはわたしのように、例外の存在もいるのだ。…そうだ、そういえば、亡者と幽霊の違いについて疑問を抱いていたことを思い出した。佐疫さんに聞こうと思っていたけど、ここにいる田噛さんに訊ねてもいいかなぁ。

「田噛さん」
「……」
「……」
「…あ?なんだよ。早く言え」
「ご、ごめんなさい…あの、亡者と幽霊って、なにが違うのかなって」

名前を呼んだら無反応だったので、てっきり無視されたのかと思いきやちゃんと聞こえてたみたい。返事をするのがだるかったと捉えたらいいのだろうか。
しかしわたしが質問をした矢先、田噛さんは黙り込んだ。うわぁ、もしかしてめんどくせぇやつって思われてるのかな。ショック。やっぱり田噛さんに聞かないで佐疫さんに聞けばよかった。とはいっても、彼も時折こわくなるんだけど。
沈黙がつらいので、なんでもないですと言おうと口を開きかけたら「亡者は肉体を持つ。幽霊は持たない。魂だけが彷徨ってる」と教えてくれた。…た、田噛さん…!平腹さんとのやり取りから、今までなんでもかんでも面倒の言葉で片付けてしまうひとだと思い込んでいたけど、実はいいひとなのでは。平腹さんとの関わりで大分心が荒んでいたわたしには、とっても新鮮に感じられた。
嬉しくて緩む頬を隠さずに「ありがとうございます」と言ったら、田噛さんに変なものを見ているような目で黙視された。次いで、その目が少し丸くなり、おや?と思う。

「お前、後ろ」
「!…ふ、ふふん、もう同じ手には」
「亡者いるぞ」

その瞬間、わたしの力が抜けきっていたはずの下肢に勢いよく血液が巡り、本来の力が蘇った。そうしていわゆる火事場の馬鹿力というやつで、爆発的なスタートダッシュを切ってその場から逃げることに成功を収めたのである。

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