わたしの頬肉に無遠慮に噛みついた平腹さんは、途端にご機嫌になった。まったくコロコロと色々な表情を見せてくれるひとだ…。それが本当に恐怖心を煽ってくる。今はにこやかでも、どうせまたすぐに怒り出すに違いないという確信がわたしの中で芽生えている。
ところで、彼には食人を嗜む傾向でもあるのだろうか。でも、昨日は普通にラーメンを食べていたはず。もしかして胃袋に収まるなら、食欲を満たせるのなら何でもいい、という感じなのかな。だとすると、さっき頬を噛み千切られなかったのは平腹さんの気まぐれで、わたしが骨になってしまうのは時間の問題…!?そう考えて、思わず皮膚に歯を立てられ、肉を裂かれ、血を噴き出している自分を想像する。その直後にゾゾゾ、と肌が粟立った。おまけに先ほどの、平腹さんの鋭利な歯がブチリと頬に穴を開けた、今まで感じたことのないような体感も蘇り、ぶるぶると身体が震える。絆創膏で塞いだ傷口が、またじぃんと熱を持った気さえする。あまりに衝撃を受けたものだから、今も頬に歯が刺さっているような錯覚までしてきた。手足はすっかり体温を失っている。
死んでしまいそうな恐怖体験を思い返していると、突然平腹さんが立ち上がった。たったそれだけのことなのに、身体はわたしの意思に反してビクッと大きく跳ねる。情けないことに、わたしの脳には平腹さんは大変な危険人物であると刷り込まれてしまったらしい。でも、それくらいのことを彼はわたしにしてきているのだ。仕方がない。
腰を上げた平腹さんを注視して、もしまた何か痛いことをされたら可能な限り逃げられるよう、臨戦体勢をとる。そうは言っても、わたしが逃げられる確率なんてたかが知れている。けど、脅威から逃げるというのは本能の一環。これを失ったとき、それこそわたしの最期な気がする。
歯を食いしばって、両手を力いっぱい握りしめて。きっと今のわたしは一目で警戒していると分かるような様子なのだろうけど、構わない。これで平腹さんが、わたしに恐れられているということに気がついて、少しでも乱暴なことをしないと反省してくれれば万々歳だ。とはいっても、彼のことだから期待はしないでおこう…。
そんな戦いを繰り広げるわたしの前で、平腹さんは着ていた部屋着をおもむろに脱ぎ出した。ので、わたしは目が飛び出さんとする勢いでびっくりした。ど、どうして!男のひとの身体なんて見たこともなかったから、体温がぐぐっと上がって、顔が熱くなる。恥ずかしい!さっきまでメラメラと燃えていたわたしの心は一気に消火され、今や残るのは真っ黒に焦げた残骸のみ。羞恥のあまり、両手で顔を覆った。うわぁ、顔あっつい!冷え切っていた手が気持ちいいと感じるくらいには、赤面していたのだろうか。いやだ、恥ずかしい。わたしはそのままテーブルに突っ伏した。ここから消えてしまいたい。
ゴソゴソ、という布が擦れる音がする。視覚を遮った分聴覚が研ぎ澄まされた感じ。…突っ伏したの、失敗だったかも。これはこれで、なかなか恥ずかしい。駄目だ、駄目だ。なにも考えるな。考えちゃだめだ。だめだ…。

「んー?ナマエ何してんの?」

声をかけられて、心臓が大きく飛び跳ねた。「な、なにも…してないです…」辛うじて絞り出した声は、彼に届いただろうか。

「着替え終わったし、そろそろ行くかー!」

えっ、どこに?ぱっとまだ熱を持った顔を上げると、平腹さんは制服を着ていた。お仕事かな。もしかして、わたし自由になれるのかも。そう思って心が踊る。

「ナマエ!ちょっと早いけど昼飯食いに行くぞ!」
「は、はい…!」

だから今回ばかりは嬉々として、彼の言うことに頷いた。



どんぶりから溢れてしまいそうなほどの、カツの卵とじ。お肉が大きすぎて白米が見えない。平腹さんはそれをお腹に流し込むように食べていた。思い返してみると、昨日のラーメンも具がもりもりだった。
平腹さんの向かい側では、わたしたちより先に席についていた田噛さんが、唐揚げ定食に静かに箸を進めている。そしてその唐揚げの量がまた多いのだ。咀嚼するスピードは普通、あるいは普通より少しだけ速いくらいだと思うけど、こんなにも山盛りな唐揚げを彼は本当に食べきることができるのだろうか。
かくいうわたしは、トマトパスタを注文して美味しくいただいていた。ここの食堂、なんでもあるなぁ。

「廃校の次は廃神社かよ」
「神社とかすっげー楽しそうじゃん!?」
「お前…目的忘れんなよ」
「そんな簡単に忘れないって!」
「死なれても運ばねえぞ俺は」
「えー?今回の奴ヤバそうなの?」
「いや。話を聞く分にはちょろい」
「お祓いに失敗して死んだんだっけ?」
「肋角さんがそう言ってたな。未練でもあるんじゃねぇの」
「ふーん…オレ未練とかよく分っかんねえなあ〜」
「とにかく手っ取り早く終わらせてさっさと帰って来るからな」
「りょうかーい!」
「オイ俺の唐揚げ取んな馬鹿」
「うわっコレやっぱうめぇ!ナマエも食う?ほい!」

誰も食べますなんて言っていないのに、わたしのお皿に唐揚げがひとつ飛び込んできた。田噛さんがジロリと平腹さんを睨む。わたしの方に眼光が向けられないので、少なくとも田噛さんには平腹さんよりは常識はあるのだろう。
それにしても、二人は喋りながらも食事のスピードを衰えさせない。彼らの会話のやりとりを聞くに、これから仕事があるらしい。平腹さんが制服に着替えたから薄々そうだとは思っていたけど、これで確信に至った。
そんなことより、“廃神社”という単語が聞こえた。嫌な想像しかできない場所だ。あくまで個人的な考えだけど、悪霊だとかそういう負の影響を与えるようなものがたくさんいそう。…そういえば、幽霊と亡者の違いってなんだろう。後で佐疫さんに聞いてみようかなぁ。

「ごちそーさん!」
「…行くか」

ドン!とどんぶりがテーブルの上に勢いよく置かれた。うわぁ、もう食べたの。気づけば田噛さんも完食していた。平腹さんがよく食べるひとなのは見た目から想像に容易いけど、彼はそこまで体格がいいわけではないのに。すごい。そんなふたりを横目に、わたしはまだ半分以上残っているパスタをフォークにくるくると巻きつけていた。実は食べるのに時間がかかるのだ。
平腹さんはガタガタと音を立てて椅子から立ち上がり、制帽を目深にかぶる。それのつばにより、彼の目元は真っ黒な影に隠され、そこから平腹さん特有の黄色い瞳がのぞく。…目元に影かかるのは、こわいのであんまり好きじゃない。暗い所だと尚更だ。それに平腹さんの瞳の場合は色合いが色合いだから、余計目が暗闇にぼうっと浮かんでいるように見えるので少しだけ苦手だ。ビクッてなる。
どこからともなく、平腹さんは例の恐ろしいシャベルを、田噛さんはツルハシを取り出した。その出で立ちは、まさに戦闘態勢といったところ。ちょっとだけ亡者が可哀想、とか思ってみたり。
さて。ふたりがお仕事に行っている間、わたしはどうしよう。パスタを咀嚼しながら考えてみたけど、今は特にやりたいことが思い浮かばない。まあ時間はたっぷりあるので、ゆっくり考えればいいか。自由ってすばらしいなぁ。思わずにっこり。上機嫌にもなるというものだ。わたしは隣に立つ平腹さんと田噛さんを見上げて、「いってらっしゃい」と伝えるくらいには気分が高揚している。しかし、そうしたら平腹さんがニタリと笑った。ゾクリ、鳥肌が立つ。

「さっさとしろ」
「今行くー!」

いつのまにかテーブルから離れ、食堂の扉付近に移動していた田噛さんが声を上げた。平腹さんはそれに大きな返事をする。わたしはその様子を視界の端に捉えながら、食べかけのパスタに視線を落とした。すると食事を阻止するかのように腕を掴まれて、手に持っていたフォークがお皿の上に落下し、カラン、と軽い音が響く。せっかく綺麗に巻きつけたのに!わたしは非難するような目で平腹さんを見上げた。「……!?」するとそのまま引っ張りあげられて、椅子から立ち上がらされて、ズルズルと入口付近に待機していた田噛さんの元へと引きずられて、……!?これから自分の身に何が起こるのかを理解したわたしは、必死に足を踏ん張った。いわゆる無駄な抵抗、というものに終わったけど。

「あ?なんでソイツもいるんだよ」
「んー?」
「……どうなっても知らねえぞ」
「だってどうにもならねえし〜。田噛は心配しすぎ!」

平腹さん、あなたは楽観的すぎ。それにどうなっても知らないって、どういうこと。どうにかなってしまうような所に行くの?…ああ、そっか、だってふたりは亡者を捕まえに行くのだ。しかも廃神社に!そんな危ない所に行きたくない。絶対にいやだ。でもいくら足を地面から離さないようにしても、ただ靴底が擦り切れていくだけ。いやだ…。
田噛さんはわたしが同行することに怪訝そうな顔をしているので、まだ許せる。だけどその間も玄関に向かう足を止めてはくれないし、きっと半亡者のことなんて面倒くさいなんて思っているのだろう。今ここに、わたしを引きずるようにして連れて行こうとする平腹さんを止めてくれるようなひとは、残念ながらいないのであった。

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