テーブルを挟んで向かい合わせに座っているこの状況に、どうしようもなく息がつまる。なんとなく正座をしてしまっているけど、今膝を崩すなんていう勇気は、生憎わたしは持ち合わせていないのであった。
目の前で頬杖をつきながらブスッと唇をとがらせている平腹さんの話によると、どうやら彼は今朝のことを怒っているのだそう。わたしが脱走を試みようと、この部屋から逃げ出したことだ。目が覚めたらひとりでビビったし焦った!と喚かれたときは、本気でどうしようと思った。だってわたしが部屋から抜け出したのは勿論、平腹さんの部屋にいたらいつ冥府に連れて行かれるのか、不安で押しつぶされそうになったからなのだ。あのときはまさか自分が訳ありな存在だなんて思いもしなかったので、ここから逃げてやろうって気持ちしかなかったのだから。いたって普通の反応だ。
そのことを伝えると平腹さんは不服そうな顔をして、「ふぅーん。へぇー?」と言った。どうして納得がいっていない表情なのだろう。彼の言い分を聞いていると、まるで行動が制限されているみたい。平腹さんは一体わたしをどうしたいというのだ。
それにしても脱走を試みたことって、わたしが悪いのかなぁ…。個人的には危険を避けるという本能に従っただけなのでこちら側は微塵も悪くはないと思うんだけど、こうも怒られてしまうと本当に自分が悪いことをしてしまったかのように感じる。まさか、悪くないと信じてやまないのはわたしだけなの?もう、考えれば考えるほど分からなくなってきた。

「ナマエ拾ったのオレなのに!」

頭の中がぐちゃぐちゃで思考もままならないでいると、握り拳がテーブルに力強く振り下ろされた。テーブルがミシッと悲鳴を上げる。わたしの心も悲鳴を上げている。物は大切に扱わないとだめだよ…と思ったものの、鬼と化している平腹さんには命がいくつあっても言えやしない。
でも拾ったって。わたしは物じゃないのに!ひととしてすら見られていないだなんて。半亡者だからかなぁ…悲しいったらない。確かに昨日今日と、ぞんざいな扱いを受けてきたけど。それってつまり、そういうことなのだろうか。

「なんか…木舌とかさぁ…」
「…木舌さん…?」
「……」
「……」
「あークソ意味わかんねえー!」
「わあっ!」

平腹さんが両手をテーブルについてグイッと身を乗り出してきた。その猛烈な勢いに顔と顔がぶつかるかと思って上体を仰け反らせる。何もかもが突然だなぁこのひとは…。心臓に悪すぎる。
鼻先がくっつくほどの、超絶至近距離。どうしてここまで近づかなければならないの。近すぎて焦点が合わない。
お互いの息がかかる距離に、視線を交わすことはできなかった。気まずさであちらこちらに視線を彷徨わせると、わたしの視線はやがて平腹さんの頬に向けることで落ち着いた。そこは、先ほど獄卒さんの手によってぐちゃぐちゃにされたはずの部分だ。死んでしまうくらいの傷を負ったにもかかわらず、平腹さんの頬はまるで怪我なんてしなかったかのように、本当につるりとしている。傷跡ひとつ残っていないのである。
それにしたって、どうしたらこんなにきめ細やかなお肌になれるのか不思議。もしかしてストレスがないのかな。平腹さん、ストレスなんて感じなさそうだもんなぁ。かわりに周囲のひとが迷惑をこうむるのではないか。実際、わたしは昨日からストレスフルだ。お肌がズタズタのボロボロになっちゃったらどうしよう。「ムカつく…」のんきに肌の心配をしていたら、低い声。タラリ、背中に冷たい汗が伝った。

「ムカつくなぁって!」
「ひっ、ご、ごめんなさ」
「ナマエ」
「え、は…っ!?」

ガブリ。そしてブチリ。まさにそんな音だった。か、噛まれた!いたい!頬に思い切り尖った歯が刺さっている。

「いっ、ぃ…やっ…やだあ…!」

痛すぎてわけが分からなくて、引きつった声しか出ない。ダラリと皮膚を伝う液体の感触、それはわたしの血なのか、それとも平腹さんの唾液なのか。目の前にある肩を押しやって痛みを回避するべく離れようとすると、服の襟元を掴まれて駄目だった。ほっぺも痛いし、首も締まって苦しいし、なにこれ!
湿った何かが表皮を這う、どこかゾクリとする感覚。こんなの知らない。得体の知れない恐怖に頭の中がこんがらがって、鼻の奥がツンとした。それでも平腹さんはお構いなしに噛んでくる。ズ、と徐々に深いところまで異物が食い込んで行く感じがリアルで、気持ち悪い。じんじんする鈍い痛みの範囲が広がっていく。いたい、いたい、いたい。もういっそのこと叫び声を上げようと思ったそのとき、ようやく平腹さんが離れた。彼の口もとから頬に繋がる糸には、唾液にはあり得ない赤色が混じっている。…やっぱり、血、出てたんだ。

「ひ、ど、…っひどいです、ひどい…!」

歯は抜かれたけど、まだじくじくした鈍痛が残っている。おまけに頬から伝う液体が気持ち悪くて拭えば赤色が腕についたし、相当な出血量みたい…。
しょっぱい水分が忙しなく頬から流れ落ちる。そんなぐにゃぐにゃな視界の中で目に入ったのは、肋角さんからいただいた絆創膏の入っている箱。わたしは泣く泣くそれを開いた。まさか無駄になると思っていたものを、自分に使う羽目になるとは思いもしなかった。平腹さんめ許さない。彼といると生傷に絶えない身体になりそうなので、何枚か持ち歩くようにしよう。わたしは絆創膏を数枚、制服のポケットに忍ばせておいた。
カタカタと震える手で一枚絆創膏を取り出して、剥離紙をはがす。そこまではよかったけど、ここには鏡がなかった。傷口の場所を確認できないと貼れないのに。平腹さんめ本当に許さない。

「コレめっちゃいいなー!楽しい!」

興味深そうに頬にあいているであろう穴を凝視してくる平腹さん。こっちはちっとも楽しくなんかないんだから。わたしが怒っているとも知らずに、なんてひとだ。
すると、彼は突然わたしの手に持っていた絆創膏をひったくった。手当てすら満足にさせてくれないというの。この際あとで怒られてもいいので、さすがに少し抗議しようと思ったら、どういう風の吹き回しか、平腹さんはわたしの頬に絆創膏を張りつけてくれた。信じられない行動にポカンと口を開けていると、一枚では足りなかったのかまた箱の中から新しい絆創膏を取り出して、剥離紙をはがしてわたしの頬に貼る。それを繰り返すこと数回。驚いて放心状態になったけど、感動もした。わぁ、見直したかも…と思った矢先に、何を考えたのか平腹さんは絆創膏の上から指で傷をグッと圧迫してきたので、激痛に泣いた。実は優しいところもあるのかなぁ、なんて感じたらすぐこうだ。目の前の平腹さんはニタニタしている。もういやだ。
やがて頬から指が離れ、痛みから解放される。そこでようやくほっと一息つくことができた。痛かったなぁ…。でも、頬が原型をとどめていることに喜ぶべきなのだろうか。平腹さん相手だと、もはやどこを基準として喜ぶべきなのか分からないけど、とりあえずは。

「食べられなくてよかった…」
「……」

- ナノ -