し、死んでる…。平腹さんが死んでる。

さっきの獄卒さんは存分にバットを振り下ろしたあと、清々しい顔をして階段の方に歩いて行ってしまったので、今ここにはわたしと平腹さん(死体)だけ。この状況、わたしがやったって思われるかな…どうしよう。
直視するのが恐ろしいくらいにぐっちゃぐちゃの平腹さんは、ピクリともしない。血みどろな光景に今すぐ何も見なかったことにしてこの場から立ち去りたい衝動に駆られたけど、どうやらわたしは彼を放置してどこかにいくほど薄情にはなれないらしい。退散するよりも平腹さんをどうにかしなければ、と考えてしまったのだ。置いていくことができたらどんなに楽なことか。しかし、それはわたしの良心が許してくれそうにないのであった。…ひとまず、平腹さんを部屋に連れて行かないと。

「よいしょ、…っお、おも、ぃい…!」

手始めに力のぬけた腕を掴んで引きずってみようと思ったけど、わたしだけの力じゃ重すぎて不可能みたい。それもそうか、平腹さんとわたしでは、随分な体格差があるのだから。困った…。
初っ端から目の前に高い壁が立ちはだかってしまった。ほかに思いつく手段もなく立ち尽くしていると、ふと平腹さんの顔面が少しずつ、本当に少しずつではあるけど、治ってきていることに気がついた。…これって無理して部屋に運ばなくても、すぐにひとりで歩けるまでに回復するのかな。わたしが手を貸す必要って、もしかしてあんまりないのかな。…でも、念のため手当てするものを持ってこよう。いくら獄卒である彼の怪我の治りが早くても、こんなに血だらけになられてしまうとやっぱり心配になるし、不安にもなるのだ。
この惨劇は肋角さんの部屋の前で起こったもの。だから彼の部屋にもう一度失礼して、何か治療セットがないか訊ねることにした。
今度はスムーズにノックをして、返事が聞こえてから入室する。彼は椅子に座って書類と対面していた。お仕事中に申し訳ないかな、と思ったけど、わたしが開いた扉の隙間から鮮血に染まった平腹さんが見えたのか、一瞬で状況を理解したらしい肋角さんが「棚に箱がある。それを持って行け」と口を開いた。うろたえる様子をちっとも見せない。すごい順応性。

「…ごめんなさい、邪魔してしまって」
「気にするな」
「あの…さっき、うるさかったですよね。ごめんなさい」
「…気にするな。いつものことだ」

指をさされた棚の中をあさっていると、驚きの発言が。いつものこと、だって!殺し合い同然の喧嘩は、ここではよく見かける光景のようだ。…いつか巻き込まれる予感がプンプンする。危ないと感じたら、すぐに逃げるクセをつけておいた方がいいかもしれない。
肋角さんの言った箱らしきものを無事発見することができたので、わたしはそそくさと退室した。扉を閉めるとき「お仕事がんばってください」と言っちゃったけど、これくらいの言葉をかけるくらいは半亡者にも許されるだろう。…許されてほしいなぁ。だって肋角さん、とっても疲れたような顔をしていたのだ。それこそ、思わず声をかけてしまうくらいに。

迷惑をかけないように足早に廊下に戻る。そして床に寝っ転がるグロテスクな平腹さんのそばにしゃがみ込んで、持ってきた箱を開くと、これまた高い壁が。なんと中には絆創膏しかなかった。どういうことなの。

「手当てできない…」
「なんで手当て?」
「…っひー!ひ、平腹さん!大丈夫なんですか!」

思いもしなかった展開にひとり悶々としていると、平腹さんの意識が戻ったようだ。まさかこんなに早く回復するだなんて予想だにしなかったので、いきなり声をかけられて腰がぬけるかと。勢いよく確認した彼の顔はまだ半分潰れているけど、無事な方の目を開けて上体を起こしている。血…血が出てる…。だけど、さっきまで本当に死んでいたはずなのに。獄卒ってすごいんだなぁ。わたしたちとは根本的に身体のつくりが違う。

「あの、一応絆創膏…持ってきました」
「絆創膏?」
「はい…というか、絆創膏しかなかった…みたいな」
「オレ怪我治るのに?なんで?」
「…えっ?な、なんでって…怪我したら心配するし、手当てをするものじゃ」

わたしがそう言うと、平腹さんはポカンと口を開け呆けた表情になった。想定外の反応だ。
それにしても。絆創膏しかないだなんて、平腹さんの傷には使えそうにない。それにピシリと硬直している彼の様子を見るに、本人も治療を必要としていないみたいだし。せっかく肋角さんに頼んでいただいたものだけど、無駄になってしまったなぁ。

「やっぱり必要ないみたいなので、…!?ひ…平腹さん、なんか急に怪我が治ってます!」

絆創膏の入った箱を閉じて、部屋に返しに行こうか思案しながら茶色の扉を見上げる。でもお仕事中なんだよなぁ、と悩んで何気なく平腹さんに視線を移すと、なぜか先ほどとは比較できないくらいの勢いで、彼の傷は治癒され始めていた。なんだこれは!言葉にならない衝撃。失礼だとは思いながらもジーッとその細胞が修復される様子を凝視してしまった。本当に治っている…夢のようだ。「えー!?なに!?なんなの!?」なんなのって、そんなのわたしが訊ねたいくらい。どうしたんだろう。両手で顔を覆ってわあわあと挙動不審な動きを見せる平腹さんを見て、なんだか見てはいけなかったものを見てしまったような気になった。彼はすっとんきょうな声を上げた後は黙りこくってしまうし、その正反対な態度によって余計に訳が分からなくなった。

「平腹さん、あの…大丈夫ですか?」
「……」
「?…平腹さ」
「……」
「ひ」

あまりにも理解できない状況すぎて声をかけてみたけど、彼は両手の指の間から身の毛もよだつような瞳を覗かせるだけ。こわすぎてちょっと泣けてきた。もうどうすればいいのか分からなかったので、逃げるように絆創膏の入った箱を抱きしめる。サイズ感がいい感じ。
平腹さんの沈黙は続く。おまけに突き刺さる視線も継続。どこに視線を持っていけば心のダメージを最小限に抑えられるか検討していると、扉が開いた。肋角さんの部屋の扉が。ギイィ…という音がなんだかとっても恐ろしくて鳥肌が立つ。おそるおそる部屋の方を見てみれば、少しだけ開かれた扉の間から赤く光る瞳が見えて、ゴゴゴという効果音まで聞こえてきたような。それに伴って周囲の温度が急降下したような。…肋角さんの部屋の中から、冷気が漂ってきている。
様子がおかしかった平腹さんもこの異常に気がついたのか、ハッと我に返った。そして肋角さんの口が開かれようとしたその瞬間、わたしは腕を掴まれて走らされる。ぐいぐいと引っ張られて階段を登って、廊下を走って、今朝目を覚ました平腹さんのお部屋に二人して飛び込んだ。ゼエゼエと荒れた呼吸がひとつ。肩で息をしているのはわたしだけか…。平腹さんの体力は底なしに違いない。
それにしてもさっきの肋角さん、絶対怒ってた。鬼が見えた。

「仕事中なのに、はぁ、部屋の前でうるさく、しすぎたんだろう、なぁ…ふぅ」
「やべぇ!逃げてきちゃったけど後で絶対怒られる!」
「…そのときは、たぶんわたしも一緒です」
「元はと言えばナマエのせいじゃん!」
「!?ど、どうして…!」
「オレだって分かんねーーー!!」

わたしだってわかんないよ。

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