久しぶりのひとりの時間に、わたしは舞い上がっていた。しかしそんな至福の時間は、長くは続かなかったのである。
ひとつ、大変なことに気がついてしまったのだ…わたしはこの建物の作りをしらない、ということに。この廊下でさえもこんなにも広いのだから、きっとお屋敷そのものが大きいのだろう。真っ直ぐ玄関に行けるような運はわたしにはないだろうし、うろついている内に別の獄卒さんや…最悪、起きた平腹さんに見つかってしまう可能性も否定できない。
どうしよう。でもこのまま彼の部屋にいたとして、この先のわたしの命を保障してくれるものはないのだ。絶対にないのだ!それならば、今引き返さずに自力で外に出るしかない。

幸い廊下には誰もいないようだけど、もし誰かが歩いてきたときに隠れることができるようなものもなかった。あんまりうかうかしていられない状況だ。わたしは意を決して移動することにした。
まず見つける必要があるのは階段だろう。窓から外を見るに、ここはおそらく三階。地面が遠く離れている。もしこれが一階だったなら、玄関を探さなくても窓から脱出、なんてこともできたのに。残念。

そろりそろり、足音を響かせないように廊下を歩く。壁に連なるたくさんの扉には、それぞれ名前の書かれた表札のようなものが掲げられていて、それらが獄卒さんたちの自室であることを示していた。一つ一つ見ていくと“佐疫”という名前もあり、昨日の天使のような姿を思い出す。う〜ん、彼のピアノは、本当に素敵だった。
なんて、思い出に浸っている場合ではない。わたしはただひたすらに階段を目指して歩き続けるのみ。そう意気込んでいると、その階段が廊下の先にあった。わあ、なかなか幸先がいい気がする。もしかしたら自分が思っている以上に、楽に外に出られるかもしれないなぁ。
希望に胸を膨らませながら階段を一番下まで下りていくと、見覚えのあるところに出た。昨日平腹さんに連れてきてもらった食堂があったのである。扉はしまっているけど、中からはなにやらいい香りが漂ってきて、幸せな気持ちになる。朝ごはんの時間帯なのだろうか。でも、駄目だ。ご飯なんて食べている時間はないのだから。
歯を食いしばって食堂の前を通りすぎようとすると、よりおいしそうな香りが強くなり…なんということだ、わたしの足が動かない。食欲が湧いてきて、お腹がぐうと悲しげな音を鳴らす。地面に根が張ったかのようにびくともしない両足に、わたしは怒りすら覚えた。

「ナマエちゃん」

歩くという命令を拒絶する足と奮闘していたら、耳元で声がして肩に手を置かれる。おわった…これもすべてわたしの溢れ出る食欲のせい。「中に入らないの?」逆に入ってもいいのですか?そう言おうと振り返ると、そこには優しい微笑みを携えた彼がいた。

「さっ…佐疫さん…!」
「わ、大丈夫?」
「わたし、冥府も嫌ですがお腹も減っちゃって、どうしていいか分からなくて…えぐっ、わたし、あの」

冥府と隣り合わせの恐怖、それから空腹感にも追いつめられて、情けないとは思いつつも半べそをかいた。こんなことを佐疫さんに言っても、困らせてしまうだけなのに。
すると彼はぱちくりと目を真ん丸にして、直後どこを見ているのか分からない据わった目をしながら「平腹…」と呟いたので、その変貌に得体の知れない不安が襲いかかる。

「…あ、あの…佐疫さん…?」
「いや、ごめん。こっちの話だよ。分かりきっていたことだあれが事情を説明できる口ではないってね俺は何を期待してたんだろうアハハ」
「…!?」
「さて。ナマエちゃんには話しておかなければいけないことがあるんだ。だからとりあえず、食堂に入ろうか」

綺麗に一笑した佐疫さんを見て、わたしは、わたしは…!

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