ぴっかぴかに磨き上げられた廊下、その光景がわたしの視界でどんどん流れていく。途中にいくつかの扉があったけど、平腹さんはそこに見向きもしない。そんな彼の足音は、カツンカツンという一定のリズムを刻んでいた───はずなのに、しかしそれは突然に加速をみせる。さっきまで緩やかに通り過ぎていた光景は一転、わたしは恐るべき速さの世界に引きずりこまれてしまったのだ。やめてほしい。
流れの速い視界にチラリと見えた張り紙曰く、“廊下は走るべからず”。だけどそんな決まりは、どうやら平腹さんには関係ないようだった。
「もーちょいだから」だなんて、そんな冥府に着くことをわざわざ教えてもらいたくない…。なるほど、彼はそうやって絶望に打ちひしがれる亡者を見て楽しむ、どうしようもなく根性の悪いやつに違いない!
その後しばらくしてキキーッと急ブレーキをかけた平腹さんは、摩擦が足りなくて足を止めてからも少しだけ廊下の上を滑る。それから通り過ぎてしまった目標地点の前に移動して、彼はそこに存在する扉を見上げた。
…とうとう着いてしまったのだ。わたしは静かに目を閉じる。今さら逃亡を図るなんて、そんなのは不可能。分かりきっていることだ。

「何か食いたいもんある?」

そう言った平腹さんが扉を開く。するとその先には、わたしの想像していた処刑台のような、そんなおどろおどろしい場所が広がっているわけではなく。

「…し、食堂…」

食堂があった。テーブルと椅子が几帳面に並べられていて、奥には厨房も見える。まさかこんなことを予測していなかったわたしは拍子抜けて、涙がすっかり乾いてしまった。何回瞬きしてみても、目をこすってみても、誰がどう見たってこれは食堂だった。
平腹さんは近くにあった椅子を引いてわたしをその上に落とすと、厨房の方に向かって女のひとに話しかけている。…どういう状況なのだろう、これ。
やがてこちらに戻ってきた平腹さんはお盆を持っていた。湯気がもくもくと上がっていて、何か温かいものを食べるみたい。彼はそれをテーブルに置くと、わたしの隣の椅子に腰かけた。

「ラーメン…」
「ふぉ〜やっぱ一仕事終わった後は腹減るよなー!あ、ナマエはなに食いてーのか分からなかったから、ほい」
「チャーハン…」
「いただきまーす!」
「…い、いただきます…?」

どうしてこうなったの?両手をきちんと合わせてからズルズルと麺をすする平腹さんを見る。うめぇうめぇと言いながら箸を進める彼を見ていると、なんだかこちらまでお腹が空いてきたような…。
なんだろう、なんかおかしいんじゃ…そうは思いつつも、わたしは目の前に置かれたチャーハンに手を伸ばした。だって、まるでぜひとも食べてくれと言わんばかりの輝き。

結局チャーハンはすべてわたしのお腹の中におさまってしまった。おいしかった。



…おや、この状況。おかしいのでは?上体を起こしたわたしは、身体にかかっていた大きめのタオルケットを握りしめながら、茫然とするしかなかった。
いつ自分が眠りこけてしまったのか、起床直後のボンヤリとした頭をフルに回転させる。昨日は獄卒さん…平腹さんにいいように使われて、連れ回されて、…そうだ!食堂でチャーハンを食べた。それがおいしかったのだ。

「…んん?ち、違う、そうじゃなくって…」

満腹になったわたしはそのまま寝て、…どこで?

「ひ、平腹さんの、お部屋で…」

サッと血の気が引いた。なんということだ…わたしはいつ自分が冥府に送られてしまうのか絶望の淵に追いやられていたはずなのに、こんなのって。危機感は一体どこへやら、というやつだ。わたしは己の不甲斐なさに頭を抱えた。
でも、こうして目が覚めてこんなにあれこれと考えられるということは、つまりわたしはまだ冥府に連れて行かれていない、ということになる。それはどうしてだろう…さすがに熟睡している亡者を連れて行くのは申し訳ないとか、思ったのかなぁ…なんて、そんなことはありえないか。
徐々に頭の中がスッキリしてくると、この部屋のなかの環境音が耳に入ってきた。この空間に存在するもう一人の人物の気持ちよさそうな寝息が聞こえる。改めて部屋の構造を確認してみると、わたしは床に寝ていて、平腹さんはベッドの上でものすごい寝相で眠っていた。床にはカーペットが敷かれているみたいだけど、厚みがあるわけではなく、そのせいか身体の節々が痛い。だけどその痛みすらも、今のわたしには自分がまだ生きているということを実感できて、感動させてくれるのだった。
チラ、と扉の場所を見る。いたって普通の扉だ。これってもしかして、逃げられる?もう一度平腹さんの様子を確かめてみると、あいかわらずの爆睡っぷり。
ごくり…わたしはつばを飲み込んだ。音をたてないように慎重に立ち上がる。タオルケットを畳んで置き、抜き足差し足で扉の方へ近づく。そしてドアノブを…掴んだ!扉の開閉音が鳴らないように、ゆっくりゆっくりとそれを回す。すると少しだけ開いたその先に、廊下が見えた。キイィ…と扉の軋む音がして、たったそれだけのことに鼓動がばっくばくになる。緊張の糸を張りつめながら、再び平腹さんを方を見る。…うん、起きていない。
そのままわたしは無事に目立った音を立てずに扉を開け、廊下へと出ることができたのである。

…朝から疲れたなぁ。

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