講義は午前のみだったので、わたしは友人と共に街中でお昼ご飯を食べていた。彼女はいつもならサークルに飛んでいくのだけれど、どうやら今日は別の用事があるらしい。でもそれまで時間があるから、一緒に昼食を摂ろうという話になったのだ。
お昼時でお店の人数が着々と増えていく。混雑するよりも早く席を確保できたのは運が良かった。友人にはこれから別の私用があるみたいだけれど、わたしは特に何もなし。折角ここまできたのだから、ふらふらと街を闊歩するのもいいかもしれない。
ところで、サークルよりも優先する用事とは一体何だろう。実は彼女は、こういう言い方では聞こえが悪いかもしれないけれど、異性との出会いを求めてサークルに入ったタイプの人間なのだ。入学当時「男作るぞー!!」と豪語して様々なサークルに顔を出していたのを隣で見ていたから、彼女のことはよ〜くしっているつもりだ。まあ、隣、と言うからにはわたしもそれなりに振り回された訳である。挙句の果てには彼女と同じサークルに所属していた。というのも、一人で入部するのは寂しかったらしいのだ。彼氏を作りたいという気持ちは一丁前にあるというのに、かわったところで萎縮していた様子は、なんだか微笑ましいと思う。
というように、わたしの友人は大学に通っているのはサークルのためであると言わんばかりの人物である。そんなサークル一筋の彼女が、それよりも優先する用事だなんて珍しいことこの上ない。そう話したら、彼女は有名なブランドの鞄からマニキュアの瓶を取り出して、丁寧に爪に塗りながら口を開いた。

「まーね。なんか結構気の合う友達できてさあ、今日これから遊びに行くんだ」
「女の子?」
「いや男。しかも年上」
「ふうん……。そのひとのこと、狙ってるの?」
「そういう訳じゃないんだけど、まあ話してて楽しい人だし。いっかーみたいな」

慣れた様子で左右の手の爪にマニキュアを塗った友人は、ふうふうと息を吹きかけて表面を乾かそうと試みていた。「ところでさあ」大分残りの少なくなった飲み物をストローで吸い上げていると、話しかけられる。どうしたの、という意味を含めた視線で見つめると、彼女は続けた。

「なまえ、最近サークルに顔出してないでしょ」
「え?ああ、まあね」
「少しは行ってみなよ、別に最後までいなくてもいいんだからさ。途中で抜けても全然オッケーだし」
「……どうしたの、急に」

わたしがサークルに顔を出さなくなって大分経つ。今までそんなのこと言われなかったから、驚いて質問していた。退部届を出すのもなんだか億劫だったから、そのままフェードアウトしていこうと考えていたのだけれど、もしかして幽霊部員は邪魔だったのかなあ。なんて考えていると、彼女は「実は、なまえのこと気に入ってる先輩がいるんだよねー」と衝撃的なことを口にしたのだ。そのひとが誰なのか名前まで教えてくれたけれど、当然と言うべきか話したことのない先輩だった。正直、顔もあんまり覚えていないレベル。

「えええ……」
「え、なにその反応。迷惑な感じ?」
「迷惑というか、なんで?みたいな感じ」
「へえ〜。普通、誰かに好意持たれてるって分かったら嬉しくなるもんじゃないの?」
「だってそのひとと話したことないし、そう思われるきっかけがないし」
「つまり顔が好き!ってことだよね」
「ふ、複雑だ……」

友人は次にトップコートを塗り始める。仕上げに入ったということは、そろそろ時間も近づいてきているのだろう。わたしも空になったコップをテーブルに置いて、鞄から財布を取り出した。
彼女の情報提供によって、そのなんとか先輩という方が自分を好く思っていることは分かった。でも、だからといってサークルに顔を出すつもりは毛頭ない。「なまえがサークルに行かないのってなんで?バイトが忙しいから、とか?」爪の上に筆を走らせながら友人が問いかけてきた。マニキュアに集中しているのに会話もできるだなんて、器用なものだなあと感心する。

「ううん、わたしバイトしてない」
「一人暮らしでバイトもしてないとか……ああ、そかそか。実家があれだもんね」
「まあ、生活費に困ったらやろうかな〜くらいの気持ちかな」
「そんな日一生こないと思うけど」
「まさか」
「いよっし完成〜!……って時間もうないじゃん!ごめんなまえ、あたしもう行くね!お金ここ置いとくから、払っといてー!」
「はあい。気をつけて〜」

友人は鞄を引っつかんで慌ただしくお店から出ていった。高いヒールを履いていたみたいだし、転ばないようにね、と心の中で願う。それからわたしも料金を支払うため、レジへと向かったのだった。



適当に街中を歩き回ろうと考えていたけれど、なんだか気が乗らなくて、結局そのまま家に帰ることにした。平日の午後ということもあり、休日ならカップルや家族連れが多いこの場所も、今はお年寄りだとか主婦だとか、そういったひとたちの姿しかない。こういう時間帯に学校に囚われず、自由な時間を過ごすことができるのは大学生の特権であると思う。少しだけ優越感に浸りながら道なりに歩き進んでいけば、地面に見覚えのあるものが置かれていた。

「煮干しだ!?」

そう、煮干しが落ちていたのだ。なにこれ。なにこの状況。
周囲を見渡してみるも、この付近にはわたししかいないようだ。それにしても、う〜ん、既視感を覚えるなあ。実はわたしは、ネコをおびき出すために煮干しで路地裏に導こう作戦を展開したことがあったのである。成績は十戦中十連敗というなんとも物悲しいものに終わってしまったけれど。ネコという生き物は、やっぱり警戒心が中々に強いので、うまくいかないのも仕方のないことだ。なんて、当時の傷心しきったわたしは、そんな風に自分に言い聞かせることで切り替えようと奮起していたのだ。
そこでわたしは考えた。もしかして、自分と同じような思考の持ち主が近くにいるのかも、と。地面の煮干しを拾い上げて、ほかにも落ちていないか注意深く探してみると、それはあった。それこそわたしの予測通りに、路地裏へと続くような形で点々と落ちている。しかし、もう一度辺りを確認してみてもネコなんて一匹もいなかった。残念ながら、誰かの実行したこの作戦も失敗に終わってしまうみたいだ。切ない話である。ネコがくるかもしれない、そんな高揚した気持ちが報われず、ただ時間を無駄にしてしまった時の虚しさは、わたしもよく分かる。実際に経験したのだから。
でも、悲しいかな。何度作戦が失敗に終わり撃沈しようとも、もしかしたら路地裏の方にはネコがいるかもしれない、なんて考えてしまうのだ。どれだけネコが好きなんだと言われても、返す言葉もない。だって好きなのだから仕方がない。何かを好きになるのに理由なんていらない。好きだから好きなのである。
気がついたら煮干しを拾い上げて、昨日のように路地裏に足を進めていた。薄暗くて細い道を歩く、両手に煮干しを持つ女子大生。ううん、カオス。

「あ」

すると、壁に寄りかかるようにしてしゃがみこんでいる人影を発見した。あのひとは、昨日の……確か名前は一松さん、だっただろうか。彼の足元には一匹のネコ。どうやら、作戦は成功していた模様である。な、なんかちょっとだけ悔しい。わたしは成功した試しがないのに。
にゃあん。ネコが鳴き声を上げてわたしの方を見た。それに促されるようにして、一松さんも視線を上げる。気怠げな瞳がこちらを向いて、目があった。「……もう一匹釣れた」もう一匹!その言葉を耳にして、わたしは即座に辺りを見回す。今両手には煮干しがあるし、食べ物をあげられる。そう思っていたというのに、いくら探してもネコなんていない。彼にだけ見えているネコでもいるのかな。そんなことがあったらホラーだけれど。
困惑して立ち尽くしていると、ネコが足元にすり寄ってきていた。わたしの手にある煮干しがほしいのだろう。待ってましたという勢いでわたしはしゃがみこんだ。それから煮干しをひとつ、行儀よく座って待っているネコに渡せば、おいしそうに食べ始める。こういう姿を目にした時、あげてよかったなあと心底感動する。
じっと食事に専念する様子を見つめていると、一松さんが立ち上がったのが見えた。ごそごそとポケットの中からネコじゃらしを取り出して、こちらに歩いてくる。ネコじゃらしかあ、いいなあ。わたしも今度買おうかな。一松さんが持つそれを見ながらぼんやりと考えていたら、彼は再びしゃがみこみ、なぜかわたしの目の前で左右に振り始めた。

「えっ」
「……」
「ね、ネコがいるんですか」
「いる」
「どこに……わたしには見えな」
「ここに」
「えっ」

彼の目は、相変わらず何を考えているのか読み取れないものである。
わたしは困り果てるしかなかった。ふりふりと目の前でネコじゃらしを振られ、どのように反応をしたらいいのか分からないのだから、至極当然の反応だと言えるだろう。一松さんの表情は変わらないし、どこまで本気なのかちっとも汲みとれない。なるほど、今ならおそ松さんの気持ちが理解できる。
ごくり。変に緊張して唾液を飲みこんだ。どうしよう。どうしたらいいの。最善の策は何なのか思考を巡らせていると、思わぬところから救世主が現れた。
煮干しを食べ終えたネコが、わたしのかわりに飛びついてくれたのである。一松さんはそれに対応してネコじゃらしを動かし始め、これで標的が自分以外のものに変更されたと胸を撫で下ろした。
ネコと遊んでいる一松さんの表情は穏やかで、本当にネコが好きだということが伝わってくる。ネコ好きに悪いひとはいない、というのがわたしの持論だけれど、彼の様子を観察するに、やはりその持論は強ち間違いではないんだろうなあと思う。昨日今日のできごとで、そんなことを考えるのは変な話かもしれないけれど。
そんなネコと仲良しの一松さんに、ぜひとも訊ねたいことがあった。それは煮干し作戦の成功の秘訣である。わたしはことごとく失敗に終わってきたので、なにかコツがあるのならご教授願いたいところだ。

「あの」
「何」
「わたし、餌でネコを釣れたことなくて」
「ふーん」
「そのネコちゃん、この煮干しで釣ったんですよね。どうやったんですか?」
「違うけど」
「あれっ?」
「こいつは元々ここにいた。餌で釣られたのはそっち」
「……あれっ!?」

それってつまり。

「い、いやいや、わたしは釣られたのではなくて、拾ってここに辿り着いただけで」
「なら、それを釣られたと言わずに何て言うのか教えてよ」
「うっ」
「釣られた以外に何て言うの」
「ううっ」

わたしは何も言い返せなかった。

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