視線を感じた。とは言っても、例えば舐めるような視線だとか、例えば憎悪を含んだような視線だとか、そういった嫌な類のものではない。一体どこからだろうかと考えながら周りを見渡すと、薄暗い路地裏に光る、二つの瞳。それは随分と低い位置にあった。きっと動物かなにかに違いない。
にゃあ。小さな鳴き声だったけれど、わたしの鼓膜を震動させるには十分な音量だった。その鳴き声を上げるような生物は、わたしの記憶には一匹しか該当しない。そういうわけで、あそこにいるのはネコなのだということを確信するに至った。
そこからのわたしの行動は早かった。人目を気にせずにしゃがみ込み、そのネコへと近づいていく。大きな音をたてないように、目を合わせないように。ちまちまと路地裏に歩き進む女は、周囲からはさぞ奇妙に見えていることだろう。
日光が建物により遮断され、己の視界が少しだけ暗くなった。やはり、日向よりは涼しい。でもネコは基本、あたたかい場所を好むはずなのに。ちょっとかわったネコなのかな。そう考えている内に、手を伸ばせば頭をなでることができる範囲まで距離を縮めることに成功していた。

「……やった、逃げられなかった」

今一度じっくりとそのネコを観察してみると、首輪をしていなかった。「野良なの?」聞いたところで返事が返ってくるわけがなかったけれど、動物に話しかけるのは癖のようなものだ。いわゆる愛情表現のひとつである。
にゃあ。ネコが鳴いた。このタイミング、神がかっている。わたしの言葉を理解し返答してくれたようにしか思えない。思わず口元が緩んでしまった。意志疎通がとれたみたいで嬉しい。

「あ、そうだ」

思い出したように口に出せば、ネコはピンと耳を立てた。やっぱり、言葉が分かっているのだろうか。真相は定かではないけれど、こういうことは信じたほうが夢があるというものだ。「あのね、わたし、煮干し持ってるんだ」じゃん、と言いながら鞄の中から引っ張り出す。なぜ持っているのかというと、先ほどペットショップに寄って購入したためである。開封すると匂いがしたのか、ネコが近づいてきた。よし、興味はあるみたい。

「食べすぎはよくないから、ひとつだけね」

そう言うと、ネコはまたにゃあと鳴いた。このこ絶対わたしの言っていること分かってくれてる。かわいいなあ。にへらと笑いながら袋から煮干しをひとつ取り出し、地面に置こうとした。しかしそれよりも速く、ぱくりと咥えられる。初対面のネコに手で餌をあげることができた……。わたしの心は感動と感激で打ち震えている。おいしそうに煮干しを食べるネコを見ながら、わたしはただただ無言で身体をブルブルさせていた。
にゃあ、とネコが鳴く。こちらが余韻に浸っている間に食べ終わっていたようだ。「おいしかった?」そう問えば、にゃあんと鳴きながら手にすり寄ってくる。なんだこのかわいい生き物は。
にゃあにゃあと先ほどより一層鳴き声をあげるようになったネコを見て、感極まったわたしはとうとう我慢ならずに「にゃあ」と言った。こうすれば、更なる意志疎通を図れると思ったのだ。わたしは至って真剣であった。
ネコは相変わらず鳴き続けている。けれど、わたしが鳴き声を模倣したことにより、さらに打ち解けた気がしていた。ネコの表情も、甘えたような声色も、取り巻く雰囲気も、なにもかもがそのことを物語っている。

「にゃあん」
「にゃあ」
「んにゃあう」
「にゃん?」
「にゃあん」
「にゃ、……。……!」

う、嘘だ。心臓が急激に加速する反面、思考は停止。そんな、だって、足音のひとつも聞こえなかったのに、どうして。
突然沈黙したわたしを不思議に思ったのか、ネコがまんまるい瞳でこちらを見上げてくる。かわいい!と、いつもならそう思うだろう。しかし、現在のわたしには余裕がなかった。なぜなら己の視界に、ネコと地面と───第三者の足が、入っているのだから。
今のわたしは、恐怖心二割と羞恥心八割で構成されている。ひと気のない路地裏で、女がにゃあにゃあ言いながらネコと戯れているだなんて、そんなの普通の人間がみたら「なんだあいつ」状態になるに決まっているのだ。だから普段は、こうしてネコと話すことを我慢しているというのに。これは、路地裏だからと油断してしまったこちらに非がある。
そんな奇妙な光景を目にしたら、たいていのひとは見て見ぬふりをして、そそくさとその場から離れるなりなんなりするはずだ。だから、この顔から火が出そうな思いも、もう少しの辛抱……だと思っていたのに、その第三者の足は依然としてわたしの視界の一部を占領し、ピクリとも動かない。まさか死んでいるのか……?やめてほしい、こんな所で死体が発見されてしまったらわたしが怪しまれてしまう。

「……」
「……」
「……」

そしてとうとう、ネコまで鳴くのを止めてしまった。息苦しいまでの静寂。自分の鼓動がやけに大きく聞こえるのも、そのせいだ。もう、なにこれ、なにこの足。どうして動かないの。どうして見なかったことにしようってならないの。死んでるの?……ま、まさか、人間じゃなくて幽霊でした、なんていうオチ?無理だ。もう無理だ、終わりだ。真実に気がついてしまったからには、恐怖心が十割である。上を見上げるなんてできるわけがない。きっと身体が動かないのも、わたしの意思ではなく金縛りなのだろう。わたしはこの、物寂しい路地裏でひとり悲しく息絶える運命だったのだ。落胆と諦めにより両目の筋肉が機能することを放棄し、目の前が真っ黒になる。
すると、ガサリと音がした。直後にわたしの肩が飛び跳ね、同時に開眼。な、なんだぁ、身体動くや。金縛りにあっているなんて言ったの誰だまったく。胸の内でそう愚痴りながら、先ほど───つまり目を閉じる前の様子とひとつ、大きな違いが生じていることに気がついた。気がついてしまった。
人間の顔がある。
わたしと同じようにしてしゃがみ込み、じいとこちらを凝視してくる人間がいるのだ。その目はまるで魂を有していないような、そんな据わったものだった。なにをもってこちらを見つめているのかは分からないけれど、とにかくここは目を合わせてはいけない。わたしは必死に気がついていないフリをした。それはもう全力で地面を睨みつけていた。
やがてガサリ、とまた音がする。数分前、いやそれとも数十分前?ええいそんなどれくらい前かなんてことは今は重要じゃない。とにかくそれは、少し前にも聞いた音だ。怖くて音の正体を解明する気は一切起きなかったけれど、視界に入ってしまっている以上嫌でも目に入るその不審者の動き。彼は手に持っていたビニール袋に手を突っ込んでいた。刃物でも出すのだろうか。危ない粉を売ろうとしているのだろうか。もういやだ、お母さん、わたし帰りたいよ。
コツン、コツン、ガサリ。う、うわ、立ち上がったぞ。そのまま蹴り飛ばされやしないかとヒヤヒヤしたものの、そんな傷害事件は起きず。その人物はひどく気怠げな様子で、わたしたちに背を向けて歩いていった。それにしてもすごい猫背なひとだ。髪の毛も寝ぐせみたいなものがついているし。……くせっけなのだろうか。恐怖から解放された途端にあれこれと考え始めるこの適応力。我ながら感心する。
張りつめていた息を盛大に吐き出すと、ネコがにゃあと鳴いた。このこも、こわかったのかな。その割にはリラックスした体勢だった気がするけれど。さては肝が据わっているな。なかなか将来性のあるネコだ。
収まりつつある鼓動に、ホッと一息つく。この奇妙な体験は、あとで友だちにでも教えることにしよう。
おもむろにネコが立ち上がった。別の場所へ移動するのかな、と思ったものの、わたしの予測は再び外れた。ネコはにゃあんと鳴きながら、地面に置かれている缶を手でちょいちょいと弄り始めたのだ。……え、缶?

「?……さっきまでこんなの、なかったよねぇ」

缶を持ち上げて観察してみると、ネコ缶と表記されていた。一体どこから現れたのだろう。
ひとり悶々と考えを巡らせていると、ネコが一際甘い声で鳴く。きっとこのご飯を食べたいからだ。でも、誰かの落し物だったら勝手に与えるのはよくないよね。そこまで考えて、ハッと気づいた。さっきの目の据わったひとが、ビニール袋を持っていたということに。
なるほど、彼はこのネコにご飯をあげようとしてくれたのか。何も言ってくれなかったから、てっきり危ない人物かと警戒心全開で硬直してしまっていた。申し訳ないことをしてしまったなあ。
しかし、これで問題は解決だ。目の前で待ちわびた顔をしながら待機しているネコに視線を移す。「ごめんね。今あげるからね」一言謝ってからプルトップを上げて缶詰めを開け、そっと地面に置くと、待ってましたと言わんばかりの勢いで食べ始める。ものすごい食いっぷりだ。まだ身体も小さいし、育ち盛りなんだろうなあ。

「んん?」

微笑ましい姿を見つめながらホクホクしていると、視界の端に銀色の固形物が映った。一体なんだと確かめてみると、本日二度目のネコ缶を発見。またか。一度にふたつの缶を与えるのは、いくら成長期だからといってもさすがに控えた方がいい。あのひとは、どうしてふたつも置いていったのだろうか。このネコの夜ご飯にしようと考えたとか?でも、ネコが缶を開けられるわけがない。それなら、夜になったらあのひとがまた来るということ?……いいや、それもおかしい。だったら缶を置いていく意味がわからない。その時にあのひとが持ってくればいい話だから。
にゃあ。ネコが鳴いた。無事完食したみたいだ。「にゃあ」いっぱい食べたね、と口にしようとしてそう言ってしまったあたり、わたしは末期だ。これからは自重していかないと、また今日みたいな辱めを受けることになるから、少しは気をつけないと。残ったひとつのネコ缶をいじりながら自分に言い聞かせた。

「…………」

と、そこであるひとつの可能性が浮上した。そういえばわたし、さっきのひとににゃあにゃあ言っているところを目撃されていたけれど。……い、いやいや、まさかね。こんなどこをどう見たって人間の女をネコだと勘違いするような、そんな変なひとはいない。いないはず。……いないよね?

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