ここは、戦場だ。そうに違いない。
結論から言わせてもらうと、わたしは自由の身となった。ただ、決して“無事に”とは言えない。あまりに恐ろしく、そして意味不明でもあるできごとが、わたしの心をじわりじわりと蝕んでいる。今や部屋の隅っこでネコを抱えながら震え上がる有様なのだから。
一体なにが起こったのか。それは当事者のわたしにもよくわかっていないけれど、とにかく。一松さんがネコになり、そして鋭い爪で何重にも巻かれたバスタオルを八つ裂きにしたのだ。自分でもなにを言っているのかサッパリである。でも、これは本当のこと。まごうことなき真実なのであった。
一松さんはカラ松さんの襟元を掴み上げ頭突きを食らわせノックアウトしたのち、羽交い締めにされて押さえつけられていた。宥めているのは、服装から判断するにおそ松さんだ。それにしてもみんな、六つ子だから当たり前なのだけれど同じ顔だなあ。今一度じっくり観察してみると、頭がこんがらがる状況である。ここは冷静にいこう。身につけている服から誰が誰なのか区別をつけていけば、きっと大丈夫だ。
さまよわせていた視線をそろりと一松さんに固定させてみれば、彼はもうネコの姿ではなくなっていて、おや?と思う。先ほど自分がみたのは、やはり夢だったのだろうか……。
殺伐とした空気にみんなが相応の緊張感を抱いているなか、おそ松さんだけはいつもの調子だった。「どうどう、とりあえず落ち着けって。な?ほら、お前だってビビらせるのは本意じゃないだろ」軽い調子のようでいて、どこか重圧を感じさせる声色で彼はそう言った。長男パワーと表現したらいいのかな。よくわからないけれど、おそ松さんの言葉には逆らえないなにかを感じる。
ちなみに一松さんの怒りの矛先は、なぜかカラ松さんに集中的に向けられていた。襟元を掴まれたカラ松さんを見て仲裁に入らなければと思ったものの、わたしはわたしで心身ともに疲労困憊だったため不可能に終わる始末。そうしてハラハラ見守ることしかできなかったときにおそ松さんが一松さんを押さえ、そして間に割って入ったチョロ松さん。カラ松さんは気絶してしまったので結果的には救済が間に合っていなかったけれど、彼らの流れるような連携を目にして、もしかして争いごとが起こった場合はいつもこうして収めているのだろうか、なんて考えてみたり。

「一松兄さんは何かあるとすぐカラ松兄さんにあたるんだよねぇ」

喧嘩特有の居心地の悪い空気に肩身の狭い思いをしていたら、いつのまにか隣にトド松さんが座っていた。

「カラ松さんに?……どうしてですか?」
「さあ?気がついたらそうなってたから理由は分かんない。まあ、あたりたくなる気持ちは分からなくもないけどね。だって言動がいちいち痛いもん」

どうやら複雑な事情があるみたいだ。
カラ松さんの痛い言動、かあ。わたしにもなんとなく思い当たる節がある。トド松さんは恐らく、カラ松さんの時折なにを言っているのか理解しにくいような、反応に困るような立ち振る舞いのことを言っているのだろう。
しかしカラ松さんはなにも、ただの痛い人間というわけではないはず。というのも、わたし自身彼がかっこよく見えた場面に何度か遭遇しているからである。例えばさっき、疲れていた身体を心配してくれたところとか、溺れていたところを助けてくれたところとか、ほかにもいろいろ。彼はきっと、周囲に気を配れるひとなのだ。だから、カラ松さんのことを一概に痛いと表現してしまうのは少し間違っている気がする。たった数日しか顔を合わせていない人間がなに言ってるんだって思われるかもしれないけれど、少なくともこれがわたしのカラ松さんに抱いている印象だった。

「カラ松さん、かっこいいところもあるのになあ」
「……ん!?」
「ハッ!?」

自分の耳を疑った。今の、まるでわたしの心を見透かしたような言葉。腕の中にいる生き物から発せられたような気がする。でもわたしが抱いているのは、青い眼鏡のネコだけで。……まさか、まさかこのネコ、話せるの!?視線を下におろして見つめてみると、目があった。どこからどう見ても普通のネコだ。本当に人間の言葉を口にしたのか半信半疑になりながらも、心のどこかでは期待している自分がいる。そのままじいっと見つめ合ってみたけれど、なかなか口を開く素振りをみせない。幻聴、だったのかなあ。まあそうだよね。ネコが言葉を話すだなんて、そんなのありえないよね。「ネコが言葉を話すだなんて、そんなのありえないよね」……。

「……や、やっぱりしゃべった……!」

いま!確かにこのネコが喋った!脳がこの展開を処理した途端、胸が高鳴って心髄からときめきがあふれ出す。すごい!もしやわたしのネコへのあつい思いが伝わったの?これがきっと、神さまの恩恵。微笑んでくれたり、はたまた突き放してみたり、忙しいお方め……。でも今はありがとう。いつかネコとお話してみたいという願いが、叶った。叶ってしまった。夢みたい。いいや、そもそも夢かもしれない。そう思ってほっぺをつねってみた。興奮のあまり力を加減できず、泣くくらい思いきりつねった。痛かった。夢じゃなかった。
「あ、あー、んん゙っ……」得も言われぬ感激に浸っていると、隣から聞こえた咳払い。不自然なそれに思わず振り返れば、トド松さんが神妙な表情を浮かべていた。

「トド松さん、聞きましたか?このネコが、」
「ああうん聞いた聞いた〜!あとね、僕も訊きたいことあるんだけどぉ……」
「訊きたいこと?」
「カラ松兄さんのこと、かっこいいって……」
「あ、さっきこのネコが言ったことですね」
「そうじゃなくてさ、アッいやその通りではあるんだけど、厳密には違うっていうか」
「……?」
「カラ松兄さんって」

あ、また喋った。次はどんなことを話してくれるのか、ドキドキしながら待っていたら「っやば、」と上ずった声が。ど、どうしたのトド松さん。ネコの口を覆いたいのかこちらに手を伸ばしてくる。しかし彼よりも早く、ネコが口を開いてしまった。「クソサイコパス野郎なのに」……くそさいこぱす?

「ギイイイ!」

思わぬ発言にぽかんと呆けていると、トド松さんが頭を抱えて発狂した。それにしても、このネコ結構辛辣なことを言うなあ。見た目は可愛らしいのに、ギャップ萌えというものを狙っているのかな?そんなことをしなくても十分可愛いので、ぜひ安心してほしい。わたしはどんなネコでも平等に愛することを誓う。博愛リスペクト精神だ。

「馬鹿!もうほんと馬鹿!なんでこのタイミングで言うの!?これじゃあ僕が兄弟のこと悪く言う最低な人間だって勘違いされちゃうじゃん!」
「……あの、トド松さん?そんなに焦ってどうし」
「あっ!?」
「ひい」
「……そうだった、きみは知らないんだもんね、このネコのこと」
「え?」

トド松さんが今度はブツブツと独り言をこぼし始めた。なんかこわい。「へへっ、なら問題ないや。驚かせちゃってごめんね!」けれど、納得した面持ちですぐにいつもの調子に戻り、照れたように微笑んだ。照れる要素がどこにあったのか、わたしにはちょっとよくわからなかった。

「そのネコ、人間の気持ちが分かるんだよ」

唐突に衝撃の言葉が投下された。するとトド松さんがピシリと石になる。発言の主の方に視線を移せば、チョロ松さんはけろりとした表情を浮かべてわたしたちの目の前に立っていた。そっか、カラ松さんが気絶してしまった以上、もう一松さんとカラ松さんの間に割って入る必要性がなくなったのだ。
そんなことよりも。彼はさっき、なんて言ったの。人間の気持ちがわかるネコ?このネコが、そのような神々しい力をお持ちだとは……。ここで、ふと気がかりなことが思考の中に浮上する。

「あれ、それじゃあさっきの言葉って」
「っああああもう!!」

突然の大声に、つい飛び上がる。それはネコも同じだったようで、ビクッとすると開きっぱなしにされていた襖から飛び出して外へ出て行ってしまった。そんなあ。温かみの失われた腕に寂しさを感じざるをえない。

「チョロ松兄さんさあー……そんなに僕の心象悪くしたいの?ねえ」
「ドライモンスターにかける情けなんてねえよ」
「この腐れ外道!」
「そもそもお前今までも腹黒い発言隠せてなかっただろうが!人のせいにすんな!」

あっちもこっちもどこもかしこもギスギスした雰囲気だなあ。わたしの場違い感が半端ではない。困ったものである。
居たたまれず、わたしはこっそり部屋の中を見渡した。そしたらあれほどまでに返してもらいたかったバッグが、今は誰に監視されるわけでもなく放置されているのが目に入る。さすがにそろそろ帰りたい気持ちもはち切れんばかりに膨張していたので、わたしはバッグを回収するため動くことにした。
騒がしい空間を、居心地の悪さのあまり四つん這いのまま移動する。何事もなくバッグの近くまで来て、まずは中からアイフォンを取り出し時刻を確認。もうそろそろ夕方になりそうだ。どうやら思ったよりも長居してしまっていたらしい。
しかし、帰ろうにもまだ一松さんに灰皿を渡していないのだ。どうしよう。明らかに不機嫌なときに呑気にプレゼントです〜なんて、イライラを増長させる要因にしかならない気がするのだけれど。

「何見てんのー!?」
「え、あ……十四松さん」

プレゼントの入った袋を持て余していたら、気絶したカラ松さんで遊んでいたはずの十四松さんが横から袋を覗き込んでいた。「あ!それ一松兄さんのぶん?」訊ねられて、こくりと頷く。

「渡さないの?喜ぶと思うよ」
「でも、ほら……今の一松さん、なんだかとっても怒ってるじゃないですか」
「うん。カラ松兄さん死んじゃった」
「気絶です」
「きぜつ」
「はい」
「こわい?」
「…………えっ」
「一松兄さんのこと、こわい?」

うっ、と言葉につまった。こんな反応、肯定しているようなものなのに。でも、仕方がないのだ。だってあんなにも禍々しい雰囲気をまとっている姿を目にして怖気づかない方がおかしい。わたしのメンタルはなかなかに脆いのである。
微笑みを崩さない十四松さんは、依然としてわたしの返答を待っていた。なので耳打ちをするように「今はちょっとだけ」と小声で伝えると、彼は「今は?じゃあ、いつもは違う?ならぼくも嬉しい」と笑った。

「だってね、一松兄さん本当は」
「十四松」

低い、声。遮られた十四松さんはくるりと後ろを振り返った。促されるようにしてわたしも振り返ると、どうやらおそ松さんから解放されたらしい一松さんが思いのほか近いところにしゃがみこんでいる。しかし、声の低さの割に現在の彼は機嫌が悪くなさそうだった。これは……チャンスなのでは。灰皿を渡す絶好の機会。わたしは袋に手を突っ込んで紫色のそれを取り出し、一松さんにずずいと差し出した。

「あの、これ!プレゼント……なんですが」
「……………………え」

硬直する一松さんの様子を確認して、マズイと思った。もしかしたら気に食わなかったのかも。わたしとしては、別に突き返されても残念だなあ、くらいにしか感じないのだけれど。……というのはもちろん大嘘。ちょっとだけ見栄を張ってしまった。実は結構傷つく。
一松さんは食い入るようにわたしの手にある灰皿を凝視している。今さらこの手を引っ込めるのも、また勇気がいるものだ。せめてなにか言ってほしいよ、一松さん。

「フッ……どうやらマイブラザーも、ナイスでファンタスティックなプレゼントを手にするようだな」

無言の時間が経過している内に、カラ松さんの意識が戻った。彼は青い灰皿を持ち、ばっちりポーズを決めている。後ろでおそ松さんが「あちゃ〜」と言い、手で顔を覆っているのが見えた。

「……てめぇは一生寝てろクソ松」
「実用性のある代物だぞ」
「うるさい」
「しかもこの俺とお揃いだ」
「……うるさい」
「ぼくとも一緒!みんな一緒!」
「……」

クソ松とお揃いとか反吐が出る、と一松さんは吐き捨てた。受け取ってもらえなかったのは、お揃いが嫌だったからなのだろうか。カラ松さん限定のようだけれど。だとすると、もっと個別性を出せばいいのかな。
そこでわたしの脳内にあるひとつの案が思い浮かぶ。雑貨屋さんで購入したネコのシール、それが打開策になると。あれを貼れば、ネコ好きな一松さんのことだからきっと喜んでくれるかも。わたしは急いでシールを取り出した。う〜ん、やっぱりかわいい。
見惚れるのもほどほどに、わたしはシールを一枚剥がして灰皿に貼りつけた。「あ」一松さんの声。彼の視線はネコの灰皿に注がれている。そういえばわたし、一松さんにシールを貼る了承を得ていなかった。だ、大丈夫かな。そのせいでまた怒ってしまうだろうか。

「一松さんのだけ特別仕様にしてみました」

気まずくてごまかすようにへらりと笑いながらそう言えば、返ってきたのはしどろもどろで微妙な反応だけで。

「え、っと……気に入ってもらえませんでしたか?すみません……」
「う、ぐ」
「そんなことないぜ、マイエンジェル……何故なら」
「くたばってろ」
「グハッ」
「ああ!カラ松さんが!」
「だいじょーぶ!だって一松兄さんね」
「やめろ十四松ブチ殺すぞ」
「こう見えて」
「黙れ」
「すっげー喜んでる!」
「ア゙ア゙ア゙ア゙!!!」

ま、またこわくなった……。

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