ぶおおお。遠くでそんな音が聞こえた。ゆっくりと瞼を上げれば、輪郭の定まらない世界が徐々に形をなしていく。それと同時に、あたたかな風が頬を撫でているのを感じた。前髪が巻き上げられ、ふいよふいよと弄ばれている。
少しずつ明瞭になっていく光景に目を凝らしてみると、目の前には見知らぬ天井と明かり、そして同じ顔が五つ。か、囲まれている……!どこに目をやっても、必ず誰かと視線が絡む勢いだ。ひい、こわい。覗きこまれるような体勢。異様な迫力。恐怖のあまり飛び起きようとしたら、動けなかった。
そんなことより、風があたたかいを通り越してあつい、ような。いいや、これは気のせいなんかではない。確かにあついのだ。なんだろう、これ。ひとりが手に持ってわたしのおでこに密着させているものは、ドライヤー?ゼロ距離で使うものじゃあないでしょう。あ、あつい、本当にあつい!逃げようとしたけれど、やっぱり動けなかった。

「あ、っあつ、あっついぃ!あついです!」
「その顔なんか目覚めそう」
「甘美なるヴォイスだな」
「だからもっと離せって十四松」
「でも濡れ濡れっすよ!!」
「十四松兄さん、よく見て?もうだいぶ乾いてるから」

ひとりがドライヤー松さんを取り押さえてくれたおかげで、ようやく地獄からの脱出に成功。でもおでこはじりじりしている。反射的に手で覆おうとしたけれど、自由のきかない腕にハッとして、そろそろと目線を下げて自分の身体を確認してみた。すると、なんと身体がバスタオルでぐるぐるに固定されているではないか。どうりで動けないわけである。
己の状態を呆然と見つめていると、誰かが「冷えないように保温はバッチリしておいたから」と言った。ほ、保温かあ〜……。こんな、同じ顔の人間五人が身動きの取れない女を取り囲む図ができてしまっている以上、それが果たして適切な対応であるのかは理解に苦しむところがある。一見リンチされているように見えなくもない。末恐ろしい。

「人生で一番の災難かもしれない……」
「だって俺らが風呂に入れるわけにもいかないし」
「だからって、こんな……家に帰してくれたら、それでよかったのに」
「なまえちゃん、ごめん!僕は止めたんだ、でも兄さんたちが勝手に……。あと連絡先交換しよ?」
「このタイミングで!?」
「トド松……お前もノリノリだったよね?なに一人だけいい顔しようとしてんの」
「てへっ」
「チッこのドライモンスターが」
「あの、そろそろ解放」
「コードめっちゃ捻じれたー」
「あーあーそれじゃあ断線するかもしれないだろ……貸して」
「ありが特大サヨナラホームランッ!!」
「解放……」
「本当は、この純白のロォブで柔らかな肢体を包みこませたかったんだが」
「いっててて今のでアバラ折れちゃったよ」
「何故だ!?」
「かいほううう」
「すっげー!まっすぐストレート!!」
「別に普通だよ」
「さっすが童貞!」
「それはお前もだろうが!!」

彼らの耳は、わたしの声だけを遮断する特異性でもお持ちなのだろうか。つらい。こんなにひとがいるというのに、誰ひとりとして話を聞いてくれないだなんて。つらすぎる。
わたしはとにかく、この状況をどうにか打破したかった。しかし、いくら手足を広げようとしても、逃げ出そうとしても、意味がわからないくらいにギッチギチに固定されているせいで叶わない。つらい!この六つ子のみなさんは、どうも常人には考えつかないことをやってのけてくれる……。わたしはチビ太さんの“トラブルを持ってくる”という言葉を、身をもって実感していた。もう遅いかもしれないけれど。
わあわあと賑やかな五人に放置されるミノムシ……それが、わたし。ポツンと置かれて、もはや諦めの境地に至ろうとしていたら、「そういえばおそ松兄さん、さっきから気になってたんだけどさ。その袋何入ってるの?AV?」という発言により、騒がしかった部屋が一気に落ち着く。わたしの心も別の意味で静まり返っていた。え、えーぶい……。男のひとって、やはりそういうものを見るものなのだろうか。
なんて気まずさはさておいて。袋とはおそらく、雑貨屋さんで購入した灰皿が入っているやつのことだ。
わたしはこんな状態なものだから、本当は帰宅して、おそ松さんに残りの灰皿を渡してもらおうと考えていたのだけれど、妙な経緯でこの場にいる羽目になっているわけだし。この際だから、直接手渡してしまおう。

「それはプレゼントです」
「えーっ!なまえちゃんから僕に?」
「みなさんにです」
「ぷ、ぷ、ぷれぜんと……?」
「中見ていい!?!?」
「構いませんよ。ですがあのその前に」

解放していただけたらなあ。そんな願いは儚く散った。三人は袋に飛びついて、わたしの言葉にちっとも耳を傾けてくれない。もう泣きたい気分だ。
でも、それぞれ灰皿を手に取った三人は嬉々とした表情を通りこして、溶けそうな表情を浮かべて喜んでいる。「生きててよかったあー!!」「女神!女神!」……先に手渡したふたりにも言えたことだけれど、やはり彼らの反応はどこか大袈裟だなあ。そうは思いつつも、口元は緩む。よかった、気に入ってくれて。
ほっと安堵していれば、ドライヤー松さんがぐるんとこちらを振り返り視界を占領した。

「ところでキミ名前なんてーの!?ぼく?ぼくは十四松」
「はひ」
「十四松!!!」
「じゅ、じゅうしまつさん」

十四松さん、の、パーソナルスペースが極端に狭い。
わたしの名前。今までちらほらと、ほかのひとから呼ばれていたのに。気がつかなかったのだろうか。それとも話を聞いていなかっただけなのだろうか。ともあれ、たじたじとなりながらも名前を伝えれば、彼は瞬きをひとつ、そしてふたつ。続いて「なまえちゃんのにおい」とこぼした。におい、という単語にサッと血の気が引く。

「もしかして臭いですか!?か、川に落ちたから」
「嗅いだことある」
「?……それは、どういう……?」
「兄さんから!」
「?」
「一松兄さんから!!!」
「ひい」

友だちなの?と首を傾げられた。……友だち、なのかな。自分のことだというのに、よくわからない。
一松さんとわたしの関係性って、よくよく考えてみれば、どのように表現するのが妥当なのか悩むところがある。試しに考えてみたけれど、わたしの頭では残念ながら思いつきそうになく、結果口ごもるしかない。それでも興味津々に凝視してくる十四松さんを見ていると、なにか言わなければという衝動に駆られてしまう。結局「私たち、お互いに自己紹介すらしていないような感じなんですが……これは友だちって言えますか?」なんて、質問に質問で返すという申し訳ない対応になってしまった。十四松さんは不思議そうな顔をしている。ううん、そのような反応をされても仕方のないことだと思う。
微妙な雰囲気になったところで、横から「え。なまえちゃんまだ一松と会ってんの?」と言われた。まだってどういうことですか。そう言おうとしたら、口を挟まれる。

「え。会ってるってどういうことおそ松兄さん」
「文字通りの意味だけど。ちなみにあいつ、俺よりも先になまえちゃんとコンタクト取ってたから」
「まさか……あの……犯罪者予備軍の一松兄さんが……!?」
「実の兄に何てこと言ってんだよお前は。まあ、確かに将来一番心配な奴だけど……。なまえちゃん、どんな流れで一松と知り合ったの?」

一気に視線が集中した。そんな、知り合った流れを訊ねられても。わたしだってよくわかっていないのに。ただ路地裏でネコと戯れていたらネコ缶をもらったのだ。それが始まり。いつ思い出しても、奇妙な出会いだと思う。
わたしは判然としない気持ちのまま、当時のことをなるべく正確に話した。勿論ネコの鳴き真似をしたことは隠しながら。
一連のことを説明し終えたあとは、部屋に形容しがたい空気が充満していた。おそ松さんは以前にもこの話を聞いているためか表情を変える様子は見られなかったけれど、やはりほかのひとは不思議な顔をしている。

「なんかよく分かんないけどさあ。それってアレでしょ、つまりネコを通じて女の子と仲良くなれることもあるってことでしょ?それなら僕もそっち方面に手出してみようかな〜、なあんて」
「邪心のかたまり野郎め」
「クールぶっても童貞は童貞だよ?」
「だからそれは自分にも言えることだろ!?何なんだよさっきから!」
「で、どうなの?まだ会ってんの?」

ふたりのやり取りを見守っていれば、おそ松さんが話を戻してきた。そんなに興味深い内容なのだろうか。食い入るようにじっと見つめてくるものだから、つい緊張して唾をのみこむ。

「あ、会ってます。でも約束をしているとか、そういうのはないですよ。ただ路地裏にふら〜っと顔を出したら一松さんがいたり、ネコと遊んでたら、どこからともなく現れたりするだけです。すごい偶然ですよね」

そう話すと、おそ松さんは「ふーん」と口にした。な、なんだろう、この反応は。わたし、なにか変なこと言ったのかな。途端に言いようのない不安に襲われたけれど、彼は数秒後にはパッと笑顔を浮かべて続ける。「それは確かにすげえ偶然だな!」一体どんな発言が投下されるのだろうと心構えしていたものの、次に放たれた言葉はただの同意だった。そのことにより、硬くなった身体がほぐれる。よかった、なにか重大なことでも言われるのかと思った。

「一松兄さん、ネコとすっげー仲良し!なまえちゃんも?」
「この前一松さんに、ネコに懐かれてるねって言ってもらえました」
「まじで!?やべー!!」
「ふふふ」
「会話できてる!!」
「えっ、そこ?」

わたしが顔を出している路地裏は、帰路の道中にある。そういうわけで、サークルもバイトもしていないこともあり、街中を巡り歩いてから帰りにネコと戯れるという流れが習慣化していた。通い続けて早数年。どうしても都合のつかない日を除けば、ほとんど毎日のように足を運んでいる。しかし今のわたしは満身創痍の状態であるため、残念ながら今日はその都合がつかない日に該当することになるのだ。
……ところで。そろそろ本気で、このぐるぐる巻きから解放されたいのだけれど。みなさんは違和感を抱かないのだろうか。こんなミノムシみたいな女と会話をしていることを、疑問に思わないのだろか。実はわたし自身少しだけ順応しつつあることには、この際気づかないフリをしておくことにする。

「あ、あのう〜……」
「そういえば」
「え、は、はい」
「にゃーちゃんのことを知ってたのは、彼女がネコ系アイドルだから?」
「いえ、にゃーちゃんの件については、また別のいきさつがあって」
「別のいきさつ?」
「はい。でもその前に」
「そういえば」
「くっ」
「なまえちゃんって彼氏いるの?」
「……フリーです」
「ええ〜ほんとに?」

解放を求める発言をしようとする度にことごとく邪魔が入る。みなさん本当は分かっているのではないのだろうか。そうとしか思えない。
ここはガツンと一発強く出なければ、一生振り回されることになる気がする。「っあの、だから!」わたしはできるだけ大きな声をあげた。

「そういえば一松は?」
「知らなーい」
「あいつがどこかに出かけるのっていつものことじゃん」
「だからあああ」
「野球してんのかな!?」
「いやそれはないでしょ」
「俺は信じてるぜ……」
「は?」
「でも休日なのに、こんな時間まで帰ってこないのって珍しいね」
「何言ってんだよ。俺らにとっては毎日が休日だろ?」
「馬鹿今そういうこと言うなって!」
「あっやべ」
「あれ、でもなまえちゃん真っ白になってるよ」

そのとき、部屋の障子が開いて誰かが「あ」と言った。時間をおかずに冷たい風が流れ込んできて思わず目を瞑る。するとなにやら温かくてふわふわの、毛むくじゃらな物体が頬に触れた。怖々目を開けてその正体を確かめれば、なんとそこには一匹のネコが!茶色の毛並みで、青い眼鏡をかけている。どうして眼鏡をかけているのだろう。そんな思いが脳裏を過ぎりながらも、わたしの身体はネコを撫でたくてウズウズするばかり。でも現在の状態ではやはり叶いそうになくて、落胆するしかない。こんなにも近くにいるというのに。もどかしい。
それからはたと気づく。開かれた障子の向かう側に感じる、ひとの気配。横に向けていた顔をずらして上を見上げれば。

「お帰り一松。遅かったね」

そこには。まるで犯罪者のような顔をした一松さんが、いた。

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