溺れる。そう直感した。
川に落ちるだなんて、そんなこと普通に生きていれば経験するはずがないし、まさかわたしも自分がそういう事態に陥るとは微塵も予測していなかったものだから、身体が水に包まれたときはパニック状態だった。肌を刺激する水温にようやく何が起こったのか理解して、まずは水面に顔を出して酸素を取り込まないとと思ったけれど、水分を十分に含んだ服が身体を何倍も重くして、ろくに動けない。それによって更に混乱する。泳がなければとは考えつつも腕も足も言うことを聞かなくて、どうしたらいいかわからなくて、限界に近づく呼吸に意識が遠のきそうになっていたところで腕を掴まれた。そしたらそのままぐいぐいと引っ張られて、気がついたら引っ張りあげられて地面にへたりこんでいる自分がいたのだ。

「まさしく水も滴るいい男、だな……。さすが俺」

ぽたぽたと水を滴らせながらカラ松さんは言った。酸欠なのか頭はどうもボンヤリして、でも心の中はザワザワして、そんなよく分からない不安定な状態のまま、背筋をピンと伸ばして佇んでいるカラ松さんを見上げる。すると彼はわたしの視線を感じたのか、こちらを見て口を開いた。「もう心配いらないぜ、マイエンジェル……何故ならこの俺が」あ、もう無理だ。そう思ったら我慢できなかった。カラ松さんが何か話しているけれど、髪の毛から滴る水とは異なる水分が頬を濡らし始める。年甲斐もない自分の姿に顔から火が出そうだ。堪えようにも堪えられないので、俯いて顔を背けるしかない。でもその一瞬のうちにカラ松さんのギョッとしたような、鈍器で殴られたような表情が見えたから、ああ遅かったと思った。

「えっ。……おっ、あっ」

ひとまず落ち着かなければ。わたしは必死に言い聞かせた。カラ松さんの発する言葉は日本語をなしていない。絶対困っているんだ。今の自分が彼に迷惑をかけている。はやく止まれ、止まれと呪文のように繰り返して、爪が手のひらに食いこむまで握りしめて、息を整える。
正直、死ぬかと思った。満足に泳ぐこともできないし、水も飲むし、苦しかったし。そんな絶望感が助かってから一気に押しよせて、安心したら限界を迎えて、そしたらこんなことに。はた迷惑な女だなあ、わたしは。でも、もう大丈夫だ。全然問題なし。
バッと勢いよく顔を上げると思いのほかカラ松さんが近くにいて驚いたけれど、まずは「ありがとうございました。助かりました」と伝え、立ち上がる。……それにしても、今さら感はあるけれど、身体が重い。そして寒い。

「……な、なあ。大丈夫か?」
「本当、すみません……助けてもらってばかりで」
「いや、それは構わないんだが……」
「カラ松さんもずぶ濡れですが、大丈夫ですか?このままだと風邪引いちゃいますよね」
「……ああ。早く拭いた方がいい」

二人で水の道しるべを作りながら橋の方へと戻ると、周囲の突き刺さるような視線が痛い。何アレ〜……みたいなひそひそ話も聞こえる。う〜ん、でも確かに何コレ〜って状況だからなあ。恥ずかしい。そして寒い。とにかく寒い。風が少し拭いただけでも大分体温が奪われて、歯がガチガチと音を奏で始める。少しでも寒さを逃れられるように両手で腕をさすっていれば、正面からおそ松さんとトド松さんが歩いてきた。わたしのバッグもある。そうだ、そういえばおそ松さんがバッグだけは守ってくれたのだった。

「おーいなまえちゃん大丈……うわ、全然大丈夫じゃないね。唇の色悪い」
「さ、寒いですからね……とりあえず、バッグありがとうございます。アイフォンもお財布も無事でよかったです」
「いやぁでも……すっげー……濡れ濡れ……へへ……」
「それは、まあ……水の中に落ちちゃいましたから」
「僕ハンカチなら持ってるよ。無いよりはマシだと思うから、使って?」
「え、あ、ありがとうございます」

半ば押しつけられるようにしてハンカチを手に握らされる。わたし、バッグの中に自分のハンカチあるのだけれども。なんだか言いにくい勢いだった。というか二人とも、カラ松さんは眼中にないのだろうか。表情には出していないけれど、わたしと同じ境遇にあるわけだし、彼も相当の寒さを感じているはず。だから、わたしはおそ松さんにバッグを返してもらってハンカチを探そうと思った。しかしそう口にする前に、「よし!それじゃあ風邪引く前に行こう」と言って歩き始めてしまう。

「行くってどこにですか?……そうだ、それよりまず、わたしのバッグを……こんな状態ですし、家に帰」
「俺たちの家にだよ。心配しなくてもここから10分もかかんないし、大丈夫大丈夫」
「えっ?あは、ご冗談を」
「またまた、ご冗談を」
「えっ?」

何が起こっているというのだろうか。



「皆どこに行ってたんだよ、いい加減仕事……え……ッハァーー!?」

バッグを掴んでも返してくれないおそ松さんに引きずられていたら、とある家屋の前に到着した。扉の上に飾ってあったのは松の表札。それによって、ここが彼らの家であることを認識する。
おそ松さんが玄関の扉を開ければ、丁度目の前の廊下を歩いていた人物がひとり。そのひとは両手にものすごい数の本を抱えていて、玄関に入ってきたおそ松さんたちの姿を見るなり先の言葉を口にしたのだけれど、視線がやがてわたしを捉えたと思いきや、次の瞬間には叫んでいたのだ。ドサドサドサァ!と大量の本が床に落ちて、これまたものすごい音が響く。「えっ?いやいや、……ハア〜ッ!?何この状況!?」愕然とした様子でわたしたちを見てくる彼の反応をみて、本当に申し訳なくなってくる。でも、できることならこちらの主張も聞いてほしい。わたしだって目いっぱいの抵抗をしてきたのである。おそ松さんの手に握られたバッグを取り返さなければ帰るに帰れないのだから。それなのに彼は大丈夫の一点張りで一向に返してくれなくて、トド松さんもカラ松さんも見守るだけで何も口出ししてくれなくて。どうしようもなかったのだ。

「チョロ松タオル持ってきてよ」
「あ、うん。……って違うよね!?いやタオルは持ってくるけどさあ!」
「これは事故であって俺のせいではない。断じて!」
「あの、ホントすいません!うちのクズ共が何かしたんですよね?」

チョロ松さんと目が合う。彼は確か、にゃーちゃんのファンだ。あのとき……チビ太さんのおでん屋で初対面したときのことを思い出す。正直、顔を見ただけではおそ松さんたちと見分けがつかないけれど、以前の彼とは随分雰囲気が違うことは分かった。彼は悪酔いするタイプなのかもしれない。とはいえ、この場で一番話を聞いてくれそうで、かつマトモな人物でありそうだと思った。
わたしは口を開き、彼の名を呼んだ。とにかく自宅に帰るためには、自分の荷物を取り戻さなければならない。そのことを伝えたかった。すると彼はピタリと動きを止めて、「……あれ、きみってもしかして」と、記憶を辿るような口ぶりで言った。わたしに未来を予知する力は勿論ないけれど、彼の言葉の続きにはどうも嫌な予感しかしなかった。なぜなら。初めてチョロ松さんと出会ったとき。わたしは。

「にゃあん……の、人」

そう。そんな恥ずかしいことをしでかした記憶がなんとなく残っているからだ!ぐわっと体温が上がるのを感じて、冷えきっていた身体が一気に熱くなる。もういやだ、今すぐここから逃げたい。
そんなあからさまな反応を見て合点がいったのか、彼は追い打ちをかけてくる。「あ、やっぱりそうですよね?僕あの時本当に感動して。にゃあんって最高でしたよにゃーちゃんとは違った衝撃でしたしそれにあのその」うわ、うわあ、これはマトモじゃない目だ。血走っている!思わず後ずさりすると、おそ松さんから助け舟が出された。

「そこまでにしとけって、ドン引きしてるだろ。あとさぁ〜誰がクズだって?誰が」

あれ、これ助け舟じゃないなあ。喧嘩腰だなあ。

「人に迷惑かけてる奴をクズ呼ばわりして何が悪いんだよ」
「それはお前にも言えるよ。なまえちゃん引いてんじゃん。迷惑かけてんじゃん」
「僕はただ純粋な感想を述べてるだけ」
「自覚ないのが一番やべーって」

完全に蚊帳の外だ。帰りたい……。それにカラ松さんも、どうして何も言わないのだろう。わたしは先ほどのチョロ松さんの発言のおかげで熱いけれど、このままでは本格的に身体にひびいてしまう。も、もしかして、彼はわたしに気遣ってこの場に留まっているのかな。だとしたら大変だ。これ以上迷惑をかけるわけにはいかない。「カラ松さん、先に着がえてきた方が」どこか心ここにあらずという有様でおそ松さんとチョロ松さんの様子を眺めているカラ松さんに話しかければ、彼はチラリとこちらを見て、それから逸らされた。あれ?

「……フッ、折角のペアルックだ。俺はこのままで構わないぜ」
「えええ……」

無視されたと思ったものの、数秒おいて答えてくれた。よかった、さすがに無視は精神的にダメージが大きいから。……まあ、内容的にはアレだったけれど。
それにしても、ここにはマトモなひとがいないなあ……。途方に暮れていれば、不意に後ろから盛大な舌打ちが聞こえた。それにビクリと肩が跳ねる。「ほんっと使えないクソ童貞だなあ。なまえちゃん、僕がタオル持ってくるからちょっと待っててね」トド松さんはそう言うと、ウインクをきめてから靴を脱いで家の中に入っていった。よ、よかった……わたしにイライラしていたわけではないみたい。
とりあえず今は、タオルを持ってきてくれるらしいトド松さんが戻ってくるのを待つしかないようだ。仕方がないので、未だ落ち着く兆しを見せないおそ松さんとチョロ松さんのやり取りを眺めてみる。そういえば、偶然とはいえトド松さんとも出会うことができたので、あと会ったことがないのは一人だけとなった。確実に六つ子のみなさんとの関わりが広がっていっている。この調子だと、案外近い内にその一人と顔を合わせることになりそうだなあ。しかし、なんだろう……この、図られているかのような遭遇率は。冷静になって考えてみれば、なんだか恐ろしいことのようにも思えてきた。考えすぎなのだろうけれど。
溜息を吐けば、どこか遠くから奇妙な音が聞こえた。それは段々と距離を縮めているようで、少しずつ大きくなっていく。「……ぉ……ぉお……」風の音かなあ。その音が聞こえているのはわたしだけではないようで、おそ松さんとチョロ松さんの口論も止まった。そして彼らはこちらを……というよりは玄関の扉を見て、言った。

「あ〜……なまえちゃん、そこから離れた方がいいかもしれない」
「えっ?」
「我が同胞の帰還が、今……!!」
「そういうのはいいから」

いきなりどうしたのだろう。「ぉぉおおおッただいマッスル!!!」ガラスの割れる音。からの、衝撃。視界がぶれたと思ったら、膝が折れてがくんと前に倒れ込む。あれ?これってもしかして、デジャヴ?それからおでこにひどい痛みを感じて、視界が星で埋め尽くされて、意識が、……意識、が……。

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