不入谷教会へ辿り着いた美耶子となまえは、その重厚な扉を開いて中へと入った。扉を開けた瞬間、陽圧の涼やかな風がふたりの頬を撫でる。心地いいそれに美耶子となまえは仲良さげに顔を見合わせ笑む。
 どうやら求導師と求導女ともに出払っているようで、がらんとしている。人のいない教会は、どこか不気味だった。神聖な場所にはそぐわぬ空気に包まれている。もの寂しい空気は、じっとり湿っているような気がした。
「誰もいないな。でもその方が面倒じゃなくていい」美耶子が軽快に足を踏み入れ、適当な椅子に座り伸びをする。なまえは美耶子のひとつ後ろの席に座った。

「美耶子ちゃんが言った通り、涼しいね」
「この涼しさだけは私も気に入ってる」
「でも誰もいないや」
「……本当は求導師と求導女がいるんだけどな。いなくてラッキーだ」
「そのふたりって、シスターみたいな感じ?」
「まあ、簡単に言えばそうだ。でも私はふたりのことがあまり好きじゃない」
「ええっどうして?」
「……私を生贄にしようとする奴らだ。好きなわけがない」
「?」

 なまえは美耶子の言っていることを理解できなかったが、落胆している彼女を見て、それ以上追求するのはよくないことなのではないかと思う。
 出会った当初から、美耶子は厳しい家系に嫌悪している節が見られた。彼女が何かに縛りつけられている哀れな存在であると、言葉の節々から考えさせられていた。その異常なまでの拘束に、囚われているようなそれに、敷かれたレールを踏み外すことなく歩まなければならぬ人生を送るために生まれてきたような、そんな人間であることを思い知らされていた。なまえは言葉は交わさずともそう感じていた。そしてそれはあながち間違いではなかった。
 そしてなまえは落ち込んでいる美耶子の頭を撫でた。美耶子は「子ども扱いするな」と言うものの、手を払う様子は見せないので撫で続ける。

「美耶子ちゃんがなにか困ってることがあったら、わたし、できる限り力になるよ」
「……ありがとう」

 そう口籠る美耶子はなまえにとってまるで妹のような、親友のような、そんな関係性であると感ぜられた。
 すると、なんの脈絡もなしに、突如として睡魔に襲われた。まるで幾日も徹夜したあとのような、異常なまでの睡魔だった。落ちてくる瞼には抗う術がない。

「なんか眠くなってきちゃったよ」
「……普通は頭を撫でられている私の方が言う言葉だろう。なんでなまえが眠くなるんだ!」

 フンと鼻を鳴らしつつそう言うも、美耶子の表情は柔らかい。意味深なことを言われ知りたいだろうに、深く訊いてこないなまえの配慮にどこか心が安らいだのかもしれない。
 実のところ、美耶子は詳細を問われてもなんら問題はなかったが、それでもなまえが自身のことを考え行動することの嬉しさの方が優っていた。

「美耶子ちゃんと一緒にいられて安心してるからかも〜」
「……寝言は寝て言うものだぞ」
「ほんとうのことなのに!」
「……わかった。わかったから少し寝ればいい。呂律が回ってないぞ」

 呆れたようでいて、しかし優しさも含んだ声音が鼓膜を震わせる。すでにうとうとと船を漕ぎつつあったなまえは、とうとう椅子の上に横たわった。そしてするべき事柄もせぬままに、眠りのなかへと落ちていったのだ。



 うっすらと意識が浮上する。なまえはまだハッキリとしない頭のまま目を閉じていた。丁度夢と現実の境目を放浪している。
 遠くで話し声が聞こえる。次第に明瞭としていく頭に、なまえはいよいよ覚醒した。小さくあくびをしてから手で目を擦り、身体を起こす。

「あ、……目が覚めたんですね」

 なまえが伸びをしようとすると、柔らかな声が投げかけられる。振り返れば、そこにはこの夏真っ只中では暑くて倒れてしまいそうな黒い服を身につけている男性と、白と赤で装飾された服を身につけている女性がいた。その佇まいから教会に勤める者であることは一目瞭然である。

「あ、す、すみません、勝手に寝ちゃってて……!」

 あわあわと慌てふためくなまえを求導師───牧野慶は優しくなだめる。「だ、大丈夫だから。そんなに慌てないで」優しい声音でそう言われると、どこか懐かしく感じる自分がいることになまえは疑問を抱く。何故だろうと考えていると、今度は求導女───八尾比沙子が口を開いた。

「あなた、お名前は?」
「なまえです」
「……そう。どちらから?」
「どちら……?」
「村の外からやって来たのよね?」
「は、はい。そうです」

 まるで尋問されているようだ、となまえは思った。
 求導女に信じられないかのような顔をされたなまえは、どこか居心地の悪さを覚える。そして美耶子と一緒に教会から出ようと思ったら、肝心の美耶子が姿を消しているではないか! それに取り乱したのを見かねたのか、牧野が「美耶子様は先に帰りましたよ」と言う。その言葉に、美耶子のことを“様”と呼ぶことに、違和感を抱く。それに何故かなまえは逃げ出したくなった。

「あ、あの、本当に寝てしまっていてすみませんでした」
「ああ、それは気にしないで」

 ひとの好さげな笑みを浮かべ牧野は言う。「教会のなかは涼しいから。つい眠たくなるのもわかるよ。過ごしやすい室温だもんね」そう言った牧野の首に、キラリと光に反射するものをなまえは見つけた。
 「……それ」なまえが一点を見つめると牧野は首を傾げる。そして視線の先に気がついた様子で「ああ、」と頷く。

「私たちが信仰する眞魚教の偶像だよ」

 「マナ字架って言うんだけどね」牧野がそう説明すると、なまえは「……この村に来る途中の森でも、同じ形をしたものが地面に刺さっていました」と続けた。

「……そっか、外から来たんだもんね」
「はい、……」
「……」

 それにしても、どこか奇妙な空気に息苦しさを感じるのは美耶子がいないからだろうか。少なくとも、友人である彼女がいないことでなまえは焦りのような気持ちを抱いていた。そしてソワソワと落ち着かない様子で椅子から立ち上がり、「わたし、そろそろ帰ります」と言う。
 「そう? またいつでも来てくれて構わないからね」牧野が優しくそう言うと、なまえはおもむろに頷いた。そして入り口の扉を開けて走り去る。その後ろ姿を、八尾はじいっと見つめていた。

「……20年前に亡くなってしまったなまえちゃんと、なにか関係があるのかしら」
「……名前だけではなくて、幼いけど顔も、声も同じのようです。とても懐かしかった」
「そう、ね。これもなにかの思し召しなのかも」

 20年前、不慮の事故で亡くなったなまえという人物。墓だってあるのだ。彼女と同じ名を持ち、なおかつ声や仕草までも似通っているなまえのことをふたりは気にかけていた。無意味な訪問とは到底思えない。八尾はなまえが羽生蛇村へやって来たのも“何か”の前兆のような気がしていた。

「……なまえちゃん」

 思案するような声色で八尾は呟く。常と異なる様相に牧野は首を傾げた。「八尾さん? どうしたんですか?」心配そうにそう声をかけるが、その声が届かないほど思考に暮れている八尾に牧野は疑問を抱く。そして必死の形相に思わず口をつぐんだ。

「もしかして、……ううん。でも……」

 なにかに縋るような声音。けれども肝心のなにかを思い出せないような表情だった。「……でも、そうね、焦っても仕方がないわよね」ひとりで解決まで持って行ったように八尾はそう言う。
「八尾さん? 大丈夫ですか?」とうとう牧野がそう問いかけると、八尾は笑み「なんでもないわ。ごめんなさいね」と、追求を拒むかのように口を開いた。それを目にした牧野はそれ以上問い詰めることなく、口を閉ざしたのであった。

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