宮田は人知れず高揚していた。今はもう帰ってしまった、なまえのことで想いを馳せる。名前を聞いたとき、脳内で何かが結びついた。確信を得たのだ。彼女が夢の中に出て来た少女であると!
 忘れかけていた顔、声、総てが合致していた。彼方へと追いやられていた記憶がみるみるうちに蘇る。そう、彼女は宮田がよく知るなまえだったのだ!
 それにしても、なまえは事故にあって死んだはずだった。それでは先ほどの彼女は一体何者なのか? 他人の空似である可能性も大いに考えられるが、名前やその所作まで同じとなるとそうとは考えにくかった。ゆえに宮田はなまえの生き写しであるのかもしれないと考えつく。或いはもっと、怪奇な───……。まるでフィクションのような話だが、今目の前で起こったことなのだ。夢ではないのである! 宮田は歓喜していた。
思わぬ遭遇に宮田は治療費を受け取らなかった。それほどなまえと再会できたことを心底悦喜していた。
 生き写し、または他の要因からしたらこの年齢差にも納得できる。そして宮田は考えた───なまえを側に置いておきたいと。みすみす見逃すつもりは毛頭ない。そのためにはそれ相応の理由が必要だった。今回は咄嗟に明日も傷の様子を診るということで手を打ったが、今後も同じ理由を使用するわけにはいかない。怪しまれては駄目なのだ。なまえが疑問に思わないように、己の執着心に気がつかないようにしなければならない。
 それはなまえにとっては決して気持ちのいい感情ではなかった。そのことを自覚していたからこそ警戒は怠らぬようにせねばならないのだ。
 そう、宮田はなまえに執着していた。それこそ手籠めにしたいと考えるくらいには。嗚呼、なんたる運命の糸! まるで神の印ではないか!

「……は、」

 宮田は神を崇め奉るような人間ではなかったが、今ばかりは感謝せざるを得なかった。少なくとも宮田に賜物を与えてくれるような神のことを。思わず笑みがこぼれる。誰に見られた訳ではないが、手で口元を隠すように押さえた。その下には隠しようのないほど歪んだ口元が窺える。我慢しようとも不可能であった。口角がつり上がるのを抑えられなかった。それほど宮田には特別なことだった。
 なまえと会う口実はその都度考えればいい。そうして宮田は今日の残りの時間を機嫌よく過ごせそうだと思ったのである。



 なまえと石田はまた炎天のもと歩き始める。院内が涼しかったせいか、余計に暑く感じられた。「暑い……」思わず言葉として表出される。石田も制服の襟元をパタパタと扇ぎ、少しでも風が入るよう努めていた。

「熱中症にならないようにしないとだね」
「そうですね……」
「オレは駐在所に戻るけど、なまえちゃんはどうする?」
「どうしようかなあ」

 正直、なまえはこの村に興味があった。初めて訪れたというのに、奇妙な親近感を抱いていたのである。それはまるで誘われるかのようにこの村へ辿り着いたことに関係があるのか、確かめたかったのだ。

「もう少し村の中を散策してみようかと思います」
「そっか。初めて来たんだもんね。いいと思うよ」

 石田はにこりと笑ってそう言う。「でも夢中になりすぎないようにね。ちゃんと水分を摂るんだよ」その言葉になまえはしっかりと頷く。
 そして道中で石田と別れたのであった。

「……さて」

 どうしようか。石田は上粗戸の方へと帰って行った。なまえはどこを見て回ろうかと考える。そして直感に従って歩けばなにかがあるかもしれないと考えた。この村へ辿り着いたときのと同様に、なにかを見つけられるかもしれないと。
 ふらふらと目的もないままに歩き始める。じりじりと頭皮を焼く日光に流れる汗を拭きながら。
 すると、高い草むらの中に何かが見えた。白くふわふわとした何かが。なまえはそれに興味を持ち、草を掻き分けて奥の方へと進む。

「わあ、犬だ」
「うわっ!」

 横から犬の顔を覗き込むようにしてしゃがむと、驚いたような声が聞こえた。見渡せば犬のそばには黒髪の少女がいた。緋色の染めが施された振袖を来ている。一風変わった服装をしている彼女を見て、なまえは目を丸くした。「お前っ、突然横から現れるな! びっくりしただろ!」それから間髪入れず怒声をかけられたなまえは尻込みする。
 「ご、ごめんね」見たところ、なまえよりは年下らしい。艶やかな黒髪は日光に当たりきらきらと輝いている。ただ、彼女とは視線が絡まなかった。

「この犬、あなたの?」
「……そうだ。お前、この辺じゃ見ない顔だな。“外”から来たのか」
「外? この村の外からって意味なら、そういうことになるかなあ」
「……ふうん」
「それにしても、あなたの格好すごく素敵だね」
「……私は嫌いだ。この服だって、私を縛りつけてるようなものだ」

 黒髪の少女───神代美耶子は、顔をしかめ、ぐっと言葉を噛みしめる。なまえはその様子を不思議そうに眺め、ふと犬を撫でようと手を伸ばした。犬は大人しく、なまえに頭を撫でさせてくれた。クウンと鳴くかわいさに口元は笑みを作る。眼の前の光景に美耶子は驚いたような顔になった。

「うそ。ケルブが私以外のやつに頭を撫でさせることなんて滅多にないのに」
「ケルブ? この子、ケルブっていうんだ」
「……お前、わざわざこんな田舎にも来るし、なんなんだ」

 不機嫌そうな声音でそう言われる。なまえは自分が鬱陶しがられているのではと思い、慌てて弁明を試みた。「ごめんね。わたし、なにか悪いことしちゃったかな」そう言うとフンと鼻を鳴らされた。

「別に構わない。ケルブは私の“目”だ。だからそれなりに警戒心も強い。だけどお前にはそうではないみたいだからな。ケルブがそう判断したんだったら、私はそれに従う」
「目? ……もしかして、あなた、目が見えないの?」

 どうりで視線が絡まないわけだとなまえは頷いた。そして「あんまりお前って言われると傷つくなあ」と続けた。

「わたし、なまえっていうんだ」
「……私は美耶子。神代美耶子」
「美耶子ちゃん。かわいい名前だね。よろしくね」
「……なまえ、お前は色々と心配な奴だな」
「? ……どういうこと?」
「別に。いずれにせよ私には関係ないことだ」

 興味なさげにそう言われ、なまえは首を傾げた。ケルブはじいとなまえの方を見ている。美耶子という名の女子が憐れみを含んだ視線をなまえの方へと向けたが、なまえはそれに気づかず口を開く。

「わたし、美耶子ちゃんと友だちになりたい」
「……そんなこと言う奴初めてだ。まあ、なまえがそこまで言うなら、友だちになってやってもいいぞ」

 つっけんどんな態度ではあるが、そう言った美耶子の表情は柔らかなものだったので、なまえはにっこりと笑顔を浮かべる。そしてこの日、なまえは友人がひとり増えたのだった。

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