上粗戸から比良境方面へと歩き、病院に到着したふたりは院内へと入る。冷房の効いた院内はとても涼しかった。さんさんと照りつける太陽の下歩いてきたなまえと石田は生き返ったような感覚に陥る。
───宮田医院。この羽生蛇村にある唯一の医療機関である。診察室の前には数人の患者が順番を待っていた。どうやらなまえが診てもらうには少々待ち時間があるらしい。なまえと石田は受け付けを済ますと、ふたりで椅子に腰掛け、順番が回ってくるのを待つ。
 するとなまえはソワソワと落ち着かない様相をみせる。それを見かねた石田は「どうしたの?」と訊ねた。

「あの、先生ってどんな方ですか?」
「う〜ん……あんまり喋らない人?」

 どうやら医師のことが気がかりだったらしい。石田が個人的見解を述べると、なまえは硬直する。
 口数の少ない人間イコール恐怖の対象だという等式がなまえの脳内で成立したようだ。そして心配そうに伺う。「こ、こわいんですか……?」その様相を目にした石田はごく自然な動きでなまえの頭を撫でた。

「人によってはそう言うかもしれないなあ」
「……緊張してきました……」
「大丈夫!オレも隣にいるし」

 そう言い胸を張る石田に、なまえは落ち着きを取り戻したようで、くすくすと小さく笑った。それを見た石田は少し照れたような笑みを浮かべる。
 そうして時の流れに従って、患者がひとり、またひとりと捌けていく。順番が迫ってきているなまえは緊張していた。それこそ隣にいる石田が笑ってしまうくらいには。

「次の方どうぞ」

 おもむろに、診察室から顔を覗かせた人物がそう言った。医院に勤める看護師───恩田美奈だった。なまえは思わずびくりと肩を跳ねあげる。「大丈夫だから。ね?」絶望したようにぷるぷると小さく震えていると、石田に背を押され診察室の中へ入ることを促された。するとそこにはまだ若い茶髪の医師が椅子に腰掛けており、隣に恩田が佇む。
 なまえは視線を医師の方へと移した。当たり前といえば当たり前なのだが、視線が絡む。
「……」診察室に入った瞬間から、 なまえは突き刺すような視線を感じ取っており、つい怖じ気づく。なぜ、こんなにも見つめられるのかがわからなかった。診察の一環だと思いたいが、この視線にはどうもそれ以外の感情が混じっているような気がしてならないのだ。

「なまえちゃん、椅子に座って」
「……なまえ?」

 石田に促されるまま椅子に腰を落とすが、医師───宮田司郎はその“名前”にひどく興味を持ったようだった。「は、はい」なまえがびくつきながら返事をする。宮田はなにか考え事をしているようである。無言を返されるなまえは泣きたくなった。自分が何かしてしまったのかと。
 するとすかさず石田が「外から来たみたいなんですけど、あちこち切り傷できちゃってるからさ、化膿しないようにって思って連れてきたんです」と口を開いたのち、宮田は呟く。「……外から?」眉根を寄せられてなまえは涙が溢れそうだった。なにがそんなに気がかりなのかと。
すると、宮田はやおら恩田から鑷子を受け取り口を開く。

「……消毒しますから腕を出してください」
「は、はい」

 大人しく腕を差し出すと、切り傷の上に消毒液が染み込んだ綿球を押し付けられる。「いっ、いたい!」それが沁みて思わず悲痛な声がこぼれた。「消毒ですから我慢してください」しかし宮田は無情にもそう言い、ぐりぐりと綿球を傷口に塗りたくるのであった。心なしか口角が上がっているようにも見える。なまえは心も身体も泣いていた。

「それで、今回のお代についてなんですけど───」

 消毒されて泣いているなまえを横目に、石田は口を開く。ややの説得は必要かと思い立ってのことだった。けれども宮田はなんてことない様子で「ああ、いりません」と答えた。

「もしよければ、……って、え!?」
「なんですかその顔は」
「い、いやあ、まさか先生の方からそう言ってもらえるとは思ってなかったので」
「……構いませんよ」

「それ以上のものをいただきましたから」ボソリと呟くように言った言葉は、あいにくなまえと石田の耳には届かなかった。
 腕の次は足の消毒だ。大人しく差し出して激痛に耐える。なまえはちょっぴりだけ涙を零した。
 そうして長いようで短かった四肢の傷の消毒が終わった。宮田は鑷子と使用済みの綿球をワゴンへとよせると、なまえの方を見つめて静かに言う。

「明日も此処へ来てください」
「えっ? どうしてです?」

 だが、宮田のその言葉に、なまえよりも先に石田が反応を示した。「……傷の具合を診るんですよ」重々しく開かれた口から放たれる言葉。石田は首を傾げながら、さらに言及する。

「……そこまでするほどの傷ですかね?オレは消毒したらあとオッケーだと思うけどなあ」

 石田がそう返すと、宮田は押し黙った。余計なことを言うなと目線で伝えるが、石田はそれを不機嫌であると捉えた。「……あ、いや。素人目でそう思っただけですよ。先生は専門だからね、先生がそう言うなら従わないと駄目だよ」ね、なまえちゃん。石田は焦ったようにそう言い、なまえの肩に手を乗せた。するとなぜか宮田にその手を払われる。

「ど、どうしたんですか?」
「先生っ?」

 さすがの石田と恩田もこれには驚いたようで、動揺したように訊ねる。すると宮田は彼のその言葉によって目を覚ましたかのようにハッと我に返った。

「……なんでもありませんよ」
「そうですか? ならよかった」
「……では、また明日。必ず来てください」

 念を押すように、一言一言をゆっくりと確実に、口から紡がれたような気がした。傷を消毒していたときよりも真剣な眼差しで。慎重な面持ちで。
 なまえはなにをそこまで釘を刺すのか訳がわからなかったが、専門の先生である方がそう言うのならと、こくりと頷いたのだった。

- ナノ -