七月下旬。大抵の学校は夏休みが始まる時期だろう。なまえもそのうちの一人であった。
 県道333号線沿い。そこになまえの祖父母の家はあった。彼女は今回の夏休み、親元を離れ田舎暮らしをしている祖父母の元で過ごそうと思っていたのだ。今日が念願の一日目である。
 みんみんと蝉の鳴き声が響き渡っている。青々と生い茂る草花の香り、青い空、白い入道雲。なまえはうんと伸びをして、玄関から飛び出す。「おじいちゃん、おばあちゃん、行ってくるね!」そんななまえにはどうしても知りたいことがあった。

 最近、奇妙な夢をみるのだ。見覚えのない男の子と遊ぶ夢だ。顔はいつも靄がかかっていて見ることは叶わない。話す言葉もノイズ混じりで、“声”として認識するには些か難易度が高かった。それに一回きりの夢なら大して気にも留めない問題ではあったが、これが数回、数十回と続くと、さすがに“何か”あるのではないかと思い始めたのである。
 思案するなかで、なまえはふと、幼い頃に祖父母の家を訪ねたとき、幼いながらも橋の向こう側にある森のことがやけに印象に残っていたことを思い出した。中に入ったことはないが、なにかに強く惹かれていたことを思い出したのだ。そして不思議と、その森と夢にはなんらかの関係があると、漠然とそう思ったのである。なにも関係がなければそれはそれでいいか、となまえは楽観的に考えていた。けれども、どうしても夢の内容が気がかりだったので、今回行動に移すことにしたのだった。

 虫除けスプレーを全身にかけて、森の中へと入る。鬱蒼とした木々が日光を遮ってくれるので、日向よりはいくらか涼しかった。
 森の中へ入ってみると、どういうわけか目標とする場所を知っているかのようにするすると足が動く。地に落ちた葉や木の枝をぱきぱきと踏み鳴らしながら歩む。なまえは不思議なくらいなんにも疑問に思わず、動く足に従い、どんどん奥深くまで歩み進めた。
 すると道中、奇妙な形をした木製の看板───と言っても朽ちかけていて看板と言ってもいいか微妙なところであるが───が地面に突き刺さっていた。
「う〜ん……?」なまえはそれにどういうわけか既視感を抱き、一度足を止める。それは“生”という字を逆さまにしたようにも見えた。つい思い悩む気持ちが声として口から形作られる。じいっと眺めてみても、確かに初めて見る形状をしていた。にも関わらず、どこかで見たことがあるような気がしていたのだ。
 どれくらい時間が経ったのだろう。なまえは看板を見つめていたが途端にハッと我に返り、再び足を動かした。じんわりとにじむ汗を腕で拭う。そしてさらに奥の方へと歩み進めると、次は二つの分かれ道があったが、迷うことなく左の道へと曲がった。即決だった。なにかに導かれるように足を進めるなまえの様相はまるで異様である。けれども彼女はそれに気がつかない。それ以上に好奇心が勝っていたからなのかもしれない。
 しかし、歩き始めてすぐに、次は立ち入り禁止の看板が立っていた。立ち入り禁止と謳うからには、それ相応の道なのだろう。だが、なまえはその奥に自分の求める何かがあるような予感がしていた。奥まで歩き進めていく内に、それは確固たるものへと変化しており、どうしても行ってみたいという気持ちに背を押される。「……気をつけて歩けば大丈夫かなあ」と独り言を呟きながら、恐る恐る足を進める。

「いたっ」

 さすが立ち入り禁止の看板が立っていたほどの道だ。やはり人が通った形跡のない森は木々が自由に生い茂り、途中で木の枝に引っかかり腕に傷ができてしまった。そこで気がついたが、腕も足も切り傷だらけだった。「い、いつのまに……」気づかぬうちに沢山の傷を作っており、出血していたことに驚きつつも、歩む足は止まることを知らない。するとやがて、森を出て開けたところに出た。木陰から抜け出した頭部に、じりじりと日光が肌を焼く。太陽の眩しさになまえはつい目を細めた。
 陽炎がゆらゆらと揺れている。少し歩いたその先、地面を見つめていた視線をあげてみると、一軒の建造物があった。

「わあ」

 中にはひとりの警察官がいたため、なまえはそこが交番であると知る。しかし交番にしてはいやに開放的だなとなまえは思った。
 彼はじいっと見つめていたなまえの視線に気がつき、外に出てきた。なまえはつい緊張して身体が硬くなる。

「やあ。見ない顔だね、外から来たんだ」
「は、はい。333号線の方から……」
「結構歩いたでしょ。……って、腕も足も傷だらけじゃないか!」
「森の中で枝に引っかかってしまったみたいで」
「なにか処置できるものがあればいいんだけど……オレ、なにも持ってないなあ」

 親しげに話しかけてくれた警察───石田徹雄が言う。彼は胸元やら腰やらのポケットを探ってはいるものの、あいにく絆創膏のひとつも出てくることはなかった。
 しかし話してみるとどうやら気さくな人物らしい。なまえは早々に警戒心を解いた。

「これくらい大丈夫です」
「いやいや、化膿しちゃったらまずいよ。病院へ行こう」

 なまえは申し訳なさそうに首を横に降るが、石田は食い気味に「いいから、行こう」と続ける。

「で、でも、わたし、お金とかなんにも持ってなくて」
「大丈夫、大丈夫。オレ、院長先生と結構仲良いからさ、タダでやってもらえるようにお願いしてみるよ」
「そんな、でも、悪いです……」
「いいから。気にしないで」

 申し訳なさげななまえを半ば強制的に病院へ連れて行こうとする石田の迫力といったら! なまえはつい尻込みするが、そんなことは構わずに石田は背を押す。「さあ、行こう」そこまでされればなまえは観念するしかなかった。

「そういえば、名前はなんていうんだい? オレは石田徹雄。この村の駐在警察官をしてるんだ」
「なまえです」
「なまえちゃんかあ。いい名前だね」

 微笑む石田はひとの好さげな青年だった。その柔らかな雰囲気に、なまえも肩の力を抜く。「ありがとうございます!」にっこりと笑みを返せば、石田はついなまえの頭を撫でた。彼女の小動物的な様相に、思わず腕が伸びてしまったのだ。年頃の女子の頭を撫でてしまった事実に、石田は「あ、ごめん」と言って手を離す。するとなまえはきょとんと目を丸くした。

「どうして謝るんですか?」
「いや、年頃の女の子に悪いことしちゃったなって」
「わたし、そういうのはあんまり気にしたことないです」
「本当? ならよかった」

 石田という男はどうにも人と距離を縮めるのが上手い男だった。敵を作らなさそうな笑顔に気の利いた言動。なまえも出会って直ぐにではあるが、石田のことを好きになり始めていた。このように単純すぎるのが玉に瑕ななまえであった。

「じゃあ病院へ行こう。ついてきて」

 気がつけば、なぜか手まで繋がれていた。「わたし、高校生ですよ? さすがに手は繋がなくても石田さんのこと見失ったりしないです」くすくす笑いながらそう言うなまえに思わず石田の視線が釘付けになる。
「? ……わたし、なにか変なこと言いましたか?」じい、と見つめられ、なまえが不安そうに訊ねた。石田は瞬時悩む素振りを見せたが、即座に首を横に振り「ごめんごめん、なんでもないよ」と返した。有無を言わせずににこりと微笑まれれば、それ以上追跡できなくなる。なまえは押し黙った。

「病院までちょっと歩くけど。さあ行こう」

 そうして炎天のなか、ふたりは病院へ向かい歩き始めた。

- ナノ -