なまえはひとり、駐在所の前に佇んでいた。自身の足元を見つめながら眉尻を下げ、唇を噛み締め、服をぎゅっと握っている。奇妙なまでに加速している鼓動には不快感しか抱かない。唾液の分泌はその働きをなにかによって妨げられているようで、咥内はからからだった。
 声を出そうにも、声帯はなまえの意思に反して開くことはなく、それは不可能に終わる。双眸にはじんわりと涙の膜が張る。けれども彼女は泣かなかった。なぜなら、駐在所警察の彼───石田徹雄が、打破する手立てを知っているかもしれなかったからだ。確信ではない。ただ、“石田は自身の味方であってくれる”という、そんな可能性に縋りたかったのだ。
 頭上の太陽は容赦なくなまえの頭皮を焼く。地面の上にはゆらりと陽炎が揺れている。彼女の額には汗の玉が浮かんでいた。
 なまえは駐在所のなかに足を踏み入れる決心がつかず、数分が経過した。すると転機は向こうから訪れた。

「やあ、なまえちゃん。どうしたの?」

 常と変わらぬ様相でなまえの眼前に現れたのは、なにを隠そう石田徹雄だった。彼はのんびりとした笑みを溢しながら駐在所から外へ出てきた。彼女はハッとして彼の元へ駆け寄る。
「い、いしださん、わたし」なまえは現在自身が置かれている状況を説明しようとして、慌てて口を開く。だが思うように言葉にできず、結果なにを伝えたいのかが不明瞭で、それを眼にした石田は彼女のことを優しく宥めた。

「大丈夫だから、落ち着いて。どうしたんだい?」

 石田はなまえの顔を覗き込みそう言う。その姿を見た彼女は、少なからず落ち着きを取り戻した。そしてようやっと生成された唾液に、ごくりと唾を飲み込む。
「……わ、わたし、帰れないんです」なまえは泣きそうになりながらそう言い、俯く。
 その場には静寂が訪れた。太陽の明光に負けじと上げられる蝉の声が、いやに鼓膜にまとわりつく。どこか気味の悪い音だった。
 なまえはなにも言わぬ石田に漠然とした恐怖を抱いた。そして恐々と、視線を上げ、彼の顔を見つめる。すると、その先にはぱちくりと眼を丸くした石田がいた。

「家の鍵、落としちゃったの?」

 石田は思案する面持ちをしている。彼は、なまえの境遇を理解しているはずだった。羽生蛇村の“外”から当村へとやってきているのを理解しているはずだった。
「っ違うんです、わたし、村の外に行きたくて、家に帰りたくて───」なまえは悩む石田に訴えかける。だが、彼は言った。「えっ、なにを言ってるの? なまえちゃんの家はこの村にあるじゃないか」と。
 なまえは愕然とした。噛み合わない事象。明朗な笑顔を顔面に貼りつけている石田を見るに、彼は気を確かに持っていた。彼女は奈落の奥底に突き落とされた感覚に支配された。そこには自身の言っていることが相手に通用しない、明確な恐怖があった。

「暑さで参っちゃってるのかもしれないね。さあ、今日はもう家に帰ったほうがいいよ」

 石田はことの重大さに気がついていない! 無情にも、彼はなまえの背を押し、家に帰るよう促した。彼女は口を引き結ぶ。
 石田は頼りにならないことを承知したなまえは、もうひとりの、なにかを“知っている”かもしれない人物の元へ行こうと走り出した。



 陽光が陰に飲み込まれている、不入谷教会の墓碑。八尾はその前に佇んでいた。先日まで“有ったはず”のそれが、今は姿形が失せていた。その代わりに一輪のクロユリが咲いている。
 なにかが一変した証だった。それが“なに”であるかは言わずもがな、八尾は理解していた。彼女は屹立し、ただの土塊と化した地を無表情に眺めている。
 そして踵を返そうとしたとき、背後にだれかが走り寄ってくる音が聴こえた。ゆっくりと振り向けば、視線の先には八尾の想定していた通りの人物が肩で息をし立ち尽くしていた。

「なまえちゃん」
「っ、澄子さん……」

 なまえは泣きそうな面持ちで八尾を見つめ、そして恐れに顔を歪める。「す、すみこさんって、誰……?」自身の言動に顔を青ざめさせ、縋るように八尾のことを見つめる。
「八尾さん、わ、わたし」がたがたと身体を震わせているなまえは、ひたすらに現実世界が恐ろしかった。誰に救いを求めるべきか、判断が鈍る。だが、それが石田や宮田ではないことだけは気がついていた。

「わ、わたし、帰れないんです」
「……」
「……たすけて……」

 八尾はとうとう泣きじゃくり始めたなまえの傍へ歩み寄ると、優しく頭を撫ぜた。
「帰る必要なんてあるの?」その手つきとは一変し、それは感情の感ぜられない声音だった。なまえはびくりと肩を跳ねさせる。そして恐る恐る視線を上げてみれば、そこには声音の通りの表情を浮かべた八尾が佇んでいた。

「なまえちゃんは、この村で暮らしているじゃない」
「……そ、んなこと」
「“無い”? なにを根拠に言っているの?」
「っ、だ、だって、わたし、外から───」

 なまえはぼろぼろと涙をこぼしながら口を開く。だが、そうは言うものの、やはり外の世界に関する記憶は抜け落ち、そもそも自身がどのように羽生蛇村に訪れているのか、どこで生活して生きてきたのか、脳内がぐちゃぐちゃにかき混ぜられ、思考が纏まらない。
 八尾はなまえの涙を指で拭う。「泣かないで。私まで悲しくなってしまうから」八尾は哀れみ深くそう言うが、なまえは恐怖を抱く。自身の言うことが、眼の前の女には、通じない。食い違う意見はなまえの恐怖心を煽ってしかたがなかった。
 八尾は茫然と突っ立つなまえを見つめる。そして彼女の後方から、男が近づいてくるのを眼にした。
「なまえ」その声に、なまえの心臓がどくりと大きく跳ねる。振り返らずともわかる! 彼は彼女が恐怖し、逃げるに値した男なのだ! なまえは振り返れなかった。しかし、肩に手を置かれ、顔を覗き込まれる。愉しそうな瞳、そして吊り上がっている口角。なまえは心底震えあがった。

「突然走り出すから驚きましたよ」

 視線を交わすな! 彼を見るな! 警告音がなまえの身体中に響き渡るが、彼女は見てしまった。宮田の眼を、見てしまった。
 瞬間、なまえの肌がぶわりと粟立つ。表情から、声色から、彼を構成する総てから、燃え上がる依存心を感じた。愉悦の波に飲まれる宮田は、制御の効かないような、理性を忘失してしまっているような、そんな危うさを秘めている!

「さあ、帰りましょう」

 なまえは首を縦に振れない。彼女は宮田のことが恐ろしかった。けれどもそんななまえのことを気に留めない宮田は、そのまま彼女のことを抱き寄せる。ふたりのその様子を確認した八尾は、教会のなかへと戻って行った。
 今は跡形もなく無くなっている墓碑の代わりに存在しているクロユリの花弁が一枚、静かに地面の上へと落ちた。



 ───続きまして、新しいニュースです。今日、◯◯県に住む少女、みょうじなまえさんが行方不明になるという事件が発生しました。なまえさんは夏休みの期間中であり、△△県の祖父母の家で暮らしていたようです。連日どこかへ出かけていたようですが、その行き先は不明。しかし、なまえさんの祖父母は、橋を挟んだ家の反対側へ広がる森のなかに足を踏み入れていたのではないかと証言しているようです。△△警察は遭難の可能性があるとし、捜索を───

 暗い部屋で点滅するテレビを横目に、女と男は泣いていた。互いに指を組み、縋るようにして声を上げる。

「おねがいです神様、なまえを返してください……っ」

 しかしながら、その言葉は神には届くはずもなく。

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