その日の宮田医院の診療時間は正午までだった。今日なまえが羽生蛇村を訪れたのは、美耶子や春海ではなく、なにを隠そう宮田に会うためだった。緊張した面持ちで宮田医院の前に佇む。
───なにかあったら俺を頼ってください。その言葉になまえは縋りたかったのだ。
 昨今のなまえは、自分でも自分のことがよくわからなかった。祖父母含め家族の記憶があやふやになっていること、自分の置かれている状況がわからなくなっていること、羽生蛇村に奇妙な既視感を抱くこと、疑問は様々あった。宮田に相談して解決するかは不明だったが、それでも微かな希望にでもしがみつきたかったのである。

「……司郎くん」

 ふと口から溢れた言葉にハッとする。“司郎くん”とは誰のことなのだろうか、と。また自分でも理解できない現象が起こっている。なまえは明確な恐怖を抱いた。
 呆然としていると、扉が開いた。恩田と宮田が肩を並べて出てくる。ふたりはなまえに気がつき、視線をよこした。なまえは彼らの関係がただの仕事仲間と言うものには見えず、ふたりの間に割って入っていいのか躊躇する。
 すると、宮田の方からなまえの方へ近づいてきた。「み、宮田先生」なまえの縋るような顔つき、声音に、彼は静かに彼女の頭を撫でる。そして「先に帰ってください」と、恩田の方を振り返りもせずにそう言った。恩田はどこか納得のいかないような表情を浮かべる。

「で、でも」
「……」
「……っ、わかりました」

 お疲れさまです。小さな声でそう呟き、去っていく後ろ姿をなまえは困惑した様子で見つめている。

「あ、あの、よかったんですか……?」
「構いません」
「でも、すごく悲しそうでした……」
「問題ありません」

 平然と言ってのける宮田に、なまえはしどろもどろになる。明らかな感情のすれ違いがあったのはなまえでもわかった。だが宮田が大丈夫だというのなら大丈夫なのだろう、と半ば無理やり自己完結させるしかない。
「……歩きながら話しましょう」宮田にとってなまえとは至高の存在だった。彼女のことに関しては、なにに関しても、なにに対しても、絶対的なのだ。それになまえは気がつくはずもなかったが。

「今日はどうされましたか」
「……あの、昨日、先生が、……何かあったら頼ってください、って、言ってたので、……」

 なまえは混乱している頭のままに宮田に縋る。何から話せばいいのかわからなかった。それほど現状に追い詰められていた。
「記憶が錯乱しているんでしょう」なんてことはない様子で紡がれた言葉に、なまえは勢いよく頷く。

「そ、そうです。どうしてわかったんですか?」
「……」

 なまえの返事に、宮田は考えるそぶりを見せた。
 宮田が思案している様子を目にしたなまえは、冷や汗が止まらなかった。だが、宮田を頼れば打破できる状況であると、漠然とその思考に支配されていた。それが正しい道であると疑わなかった。

「夢をみませんか」

 夢。宮田はそう言った。なまえはその単語に、ふと思い当たる節があった。
───見覚えのない男の子。霧がかかっており目にすることは叶わない。表情も、声すらも、汲み取ることができない夢。
 なぜそのことを知っているのか、なまえは疑問を抱いた。

「……俺も、夢をみるんですよ。20年前から」

 にじゅうねん。なまえはその単語を繰り返した。自分よりも長い間見ている夢があるらしい。「……悲しい夢、なんですか?」どこか寂しげに言った宮田を見かねたなまえはそう問うた。すると彼は静かに口を開く。

「悲しい、とは少し違います」

 今となっては。慎重に吐き出される言葉に、なまえは耳を傾ける。何か、何かわからないかと。藁にもすがる思いで。
「……少し、この村の話をしましょうか」夢の話から一転、宮田は羽生蛇村のことを話そうと提案する。それになまえは戸惑いつつも、頷いた。何か意味があってのことだと考えたのだ。

「この村では、神に生贄を捧げる風習があるんです」
「……それって、美耶子ちゃんの言ってた」
「……ああ、美耶子様と友人だったのか。それなら話は早い」

 1300年以上前に起きた出来事。すべての事物の始まり。羽生蛇村には“神”を食した罰として、“一人を常世の存在へ捧げ、自分が奪った血肉を返して贖罪する”風習があるのだと。宮田はそう言った。いまいち理解が追いつかないなまえは、首を傾げずにはいられない。

「生贄に捧げられる対象は神代家の姉妹の妹であり、“それ”に御印が下りたときに儀式が施行されます」
「それが、美耶子ちゃん……ということですか?」
「そうなります」

 しかし、と。宮田は続ける。

「その神たる存在に抗うほどの力を持つ家系がありました」

 懐かしむような声音でそう言う宮田に、なまえはえもいわれぬ感覚に陥った。これ以上この話に聞き入ってはいけない気がする。なんとなくだが、そう思った。けれども、なぜ“そう”考えてしまうのかが不明で、また気持ちの悪い心境に支配された。点と点が繋がらない、そんな不可解な心境に。
「……話は少し戻りますが、“ある人物”が神を食したのち、この村の一部は一度異界化され、存在を危うくしたんですよ」ふたりはゆっくり歩きながら話し続ける。異界化とはなんなのか、存在を危うくしたとはどういうことなのか、疑問は山積みだった。

「……。雨が降りそうですね」

 突然、宮田がそう言った。彼が空を見上げているのを目にして、なまえも習うように空へ視線を移す。すると先ほどまでは太陽がでていたというのに、今は暗雲が立ち込め、その姿が隠されてしまっている。
「その前に帰った方がいいのではないですか」気がつけば、ふたりは駐在所の近くまで来ていた。宮田はなまえの帰り道を指で差し示す。実のところ、なまえは密かにホッとしていた。妙な話だが、帰り道がわからなかったからだ。それを宮田は意図してかはわからないが解消してくれたので、人知れず胸を撫で下ろしたのである。
 雨具を持ってきていなかったのもあり、大人しくなまえは頷いた。理解ができなかったところは明日訊ねればいいと、そう思ったからだった。

「そう、ですね。降られる前に帰ろうと思います」
「……明日、またお待ちしております。そのときは羽生蛇蕎麦をおごりますよ」
「……羽生蛇蕎麦?この村の名物ですか?」

 宮田が首を縦に振ると、ふたりと頬にぽつりと雨粒が落ちてきた。「あ」なまえが声を上げる。いよいよ本格的に降り始めてしまってはまずいので、帰らねばと足を動かす。
「司郎くん」なまえが振り返り“名”を呼ぶ。宮田は真っ直ぐに彼女を見つめる。「またね」なまえはふんわり笑みながらそう言うと、森の中へと姿を消した。

「……」

───またね、と。そう言葉をかけられて、宮田はいたく彼女のことを愛おしく思った。本当は帰したくなかったが、焦ってはいけない。いずれ決着がつくことであると自分に言い聞かせ心を鎮める。そう、まだ機は熟していないのだ。今耐えれば次は必ず手中に収めることができる!
 なまえが明日また羽生蛇村を訪れるか真偽は定かではないが、宮田は確信していた。“なまえは羽生蛇村を訪れるしかなくなる”のだと。万事において然るべき事物は然るべきところへ帰結するものなのだ。それが“今”なのである。

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