信者帳に羅列されていた文章の上から、乱雑に記入されているのは見覚えのない文字。それを目にするとひどい頭痛に襲われた。赤いインクを指でなぞる。なにかを、忘れているような気がする。それも、とても大切なことを。
 そもそもの根源はなまえというひとりの人間が羽生蛇村を訪ねてからだった。彼女を見ているとどこか安心感を抱く。頼ってもいいと、縋り付いてもいいと、そう考えさせられるのだ。華奢な身体にはそぐわぬ、母体の包容力のようなものを感ぜられる。八尾は思考の総てを擲って、そこに身を預けたかった。
 未成年の、まさに高校生では考えられない許容力に、八尾は彼女はいわゆる“普通の人間”ではないと感じ取っていた。そしてそれが、己の忘却してしまっている事物となんらかの関係があると確信していた。
 宮田がなまえのことを迎えに不入谷教会へ訪れたとき、並々ならぬ依存心がそこにあったことを思い出す。彼もまた、八尾と同様の、あるいはそれを上回るまでの感情を抱いていたように窺える。窮地に追いやられた人間が、希望に縋るその感情を。まるで明光に群がる蟲のようなそれに、八尾は思わず目頭を押さえる。あまりにも眩しい光だったが、それが今の八尾にとっては心地の良いものだった。
 神代家には“呪い”がかけられている。不完全な死が与えられ、肉体が朽ちてもなお肉塊となって生き続けるという呪いが。八尾はその呪いを解くために儀式を遂行しなければならないのだ。
───しかし、と。八尾は神代家の呪いの力が弱まっているような気がしていた。確信ではない。なんとなくだが、本能的にそう思った。理由は不明であるがゆえに、信用性の薄い考えではあったが、それでも。八尾は訳の分からぬままに儀式を施行しなくてもよいのではないかと期待していた。
 美耶子を神に捧げる儀式を、快く思っていないのも関係しているのかもしれない。命を賭して神に御霊を授けるのだ、そう思わないわけがなかった。ひとりの命を捧げ村の存続を守るのと、命を奉らずとも村の安寧が守られるのとでは、圧倒的に後者のほうが快いのは明確だ。いわば人間をひとり殺さねばならないということなのだから。
 そう考えさせられるのが、なまえが羽生蛇村を訪れているからなのだった。ゆえに、彼女は羽生蛇村の“鍵”となる存在であると考えつく。
 なまえが羽生蛇村を訪れたのは、偶然ではない。ふと、そんな考えが脳裏にちらつく。訪れるべくして訪れたのだと。何かに惹かれるようにして現れた。そこが八尾にとって、羽生蛇村の村民にとって、重要なことだった。儀式を施行せずともよいと、そう思わせる何かを彼女は持っていたのだ。

「いいえ。赦しを乞うのは避けられないことよ」

 そのために今の今まで儀式を遂行してきたのだ。それが今更無意味になるとでも? そんなこと信じられるわけがなかった。

「いいえ。なまえちゃんがいれば回避できるはず。彼女は“赦すことを許された”人物なのだから」

頭の中がぐちゃぐちゃだった。まるで何人もの人格がいるかのように───そしてそれはあながち間違ってはいないのだが───脳内がかき混ぜられる。発せられる言葉ひとつひとつが、主人格の異なる発言のようだった。

「赦しと呪いの因果関係……」

 なまえの家系の“赦し”とは神代家の“呪い”があってのこと。そもそも“呪い”がなければ“赦し”など不必要なものだ。ゆえに、もしやそれに惹かれたのではないか。八尾はそう考えつく。
 神代家の呪いが強大であればあるほど、その引力は強くなる。つまりはそういうことなのだろう。
 そして呪われた羽生蛇村を訪れたなまえは、村に感化され、あるべき姿へと変貌する。謂わば本来のなまえの姿に。その姿はまさに“神”と呼ぶに相応しかった。現世の記憶が曖昧になるのも、羽生蛇村に既視感を得るのも、すべては必然的なものだった。

「“神”が私をお許しになる!」

 二十年前に死亡したなまえの家系は、名目上は偶然という名の不慮の事故で亡くなったこととなるのだろう。しかしながら、実際は当時神に捧げられた生贄の少女が消滅したと同時に、死亡したと考えられる方が色濃かった。“赦す”ことが失敗に終わり、その代償として命を落とすことになったに違いなかった。
 “赦し”として神に捧げられるのは娘である。なまえの家系は子が数人産まれ、儀式が成功したとき、その内のひとりが消滅を強要される。ところが、なまえの場合は彼女自身が神に奉られるのみに留まらず、父母も巻き込まれなまえの家系が途絶えてしまった。それは神代家の儀式が、今までのそれよりも重きが置かれていたからなのかも知れない。まるで失敗することが分かりきっているかのような、そして羽生蛇村が異界へと変貌してしまうような、そんな“予兆”を、八尾は密かに感じていたのだ。
 神代美耶子がこの世に生まれ落ち、儀式の触媒として捧げられるため条件となる花嫁の印が下りたときに発生した波───つまるところの“呪い”の一波に、“平行世界”のなまえが惹き寄せられたと言っても過言ではないだろう。呪いの力が強ければ強いほど、それに比例して惹かれる力も強固になる。
 八尾にとって、羽生蛇村へ存在を縛り付けられるなまえを哀れむ気持ちはないわけではなかった。けれども、それ以上に呪いから解放されることの方が八尾にとってはありがたかった。幾年にもわたり拘束されてきた呪いなのだ。それから解き放たれるなど、筆舌に尽くしがたい救済なのだから!

「なまえちゃんは在るべきところへ還るだけ」

 ぎょろりとした眼玉を収める瞼が歪曲する。八尾は再び信者帳へ視線を下ろし、赤い文字を指でなぞった。人知れず口が三日月を描く。八尾は待ち望んでいた。羽生蛇村に“神”が姿を現し、自身を呪いから解放せしめる力を見せてくれる救済を!

「嗚呼神よ、哀れな私をどうかお救いください!」

 八尾は指を組み、悦喜を滲ませた声音で高らかに独り言ちた。

- ナノ -