宮田は駐在所へと向かって歩いていた。初めてなまえが医院へ来たときは石田が彼女を連れて来たので、もしかすると彼はなまえが何処にいるか知っているのではないかと踏んだからだった。
 厚い雲が太陽を遮断している。けれども湿度が高いのか、少し歩いただけでも額に汗がにじむ。宮田は黙々と歩いていた。内心はどろどろと形を成さない黒々としたものに染まっている。今は湿った外気にすら苛立ちを覚えていた。あまりの暑さに白衣は脱いでおり、青色の涼やかなワイシャツの袖をまくっている。

「あれ、宮田先生? 珍しいですね」

 駐在所に到着し石田へ声をかけようとすると、訪問者に気がついたらしい石田の方が幾分はやく口を開いた。「落し物とかですか?」石田はのんびりとした口調でそう言った。怒りに似た焦燥を抱いている宮田にとって、それはあまりにも苛立ちを誘発する態度だった。そして確かにある種の“落とし物”かもしれないな、と思いつつ宮田は本来の目的を口にする。

「なまえは何処にいますか」

 淡々とした声だった。感情の読めない声音。元来感情の起伏が乏しい宮田ではあったが、それでも不安を煽るような様相に石田は怖気づく。「ど、どうしたんですか? なんか怒ってません?」質問に答えない石田に宮田は舌打ちした。さっさと答えろと雰囲気を醸し出せば、石田は「多分教会ですよ。そう言ってましたから」と焦ったような口調で言う。
───不入谷教会。宮田はその名を聞いたとき、怨恨が膨れ上がった。自分との約束よりも教会を選択したのかと。脳裏にちらつくのは村で崇め奉られている求導師の姿。ただでさえ憎らしい相手だというのに! 邪魔をしてくれるなと内心で悪態を吐く。
 宮田は「そうですか」とだけ言うと踵を返した。目的地が定まればあとはそこに向かって歩くだけだ。できることなら教会などには行きたくもないが、そこになまえがいるのなら別の話なのである。
 苛立ちを纏った宮田が歩いていく後ろ姿を眺めながら、石田は「なまえちゃん、何をしたんだろう……」と密かになまえの身を案じていたのだった。



 教会の重厚な扉を開く。するとひんやりとした空気が宮田の肌を撫でた。それは心地のよい空気だったが、場所が場所なだけであって宮田は思わず眉をひそめる。
 なかには石田の言う通り、椅子に横たわっているなまえがいた。あいにく意識は夢の中だが。
 突然の宮田の訪問に、牧野と八尾は驚いたような顔をした。そして牧野は恐る恐るといった様相で一歩踏み出す。

「……か、神代家から、なにかあったのですか」

 緊張した面持ちで牧野は訊ねる。宮田が教会へやって来るのは神代家となんらかの関係があるときだからだ。逆を言えば、それ以外の要件で宮田が教会を訪れることはないのである。
「いえ」宮田は静かにそう言った。怒りを露わにされても恐ろしいものだが、それ以上に感情の感ぜられない様相で言われると、異なった類の恐怖を感じるものである。牧野は冷や汗をかき、バクバクと鼓動を速めている。

「……そ、それでは、一体何故?」

 尻込みしつつ、勇気を出してそう訊ねると、宮田はぴくりと反応を示した。常の無表情ではあるが機嫌がいいとは言えない。元より居心地のいい雰囲気を望んでいたわけではないが、それでも最悪な空気に牧野は思わず涙腺が緩んだ。

「……なまえを」

 宮田が無感情な声色でそう言うと、牧野は恐る恐る眠っているなまえに視線を移す。「……か、彼女が、なにか?」その問いに答えることなく、宮田はずんずん教会の中へ足を踏み入れ、なまえのそばに近寄った。何度か揺すってみたが深い眠りに落ちているようで、目を覚ますことはない。あまりにも無反応なものだから、まさか死んでいるのかと思ったものの、呼吸状態を確認すれば胸が上下していることが分かり、安堵したように息を吐く。
 そして宮田はなまえを背負った。完全に脱力しているため少々手こずったが、やや乱暴に扱っても覚醒しないので、一体どれほど爆睡しているのだと小さく笑う。しかし、そちらの方が都合がいい。もし“抵抗”などされたら、と考えると、とてもではないが平常心を保っていられる自信はなかった。“抵抗”されるかもしれない、という危惧は、なまえ自身にとってはあり得ないことだったが、それほど宮田にとっては案ずるに値するものだった。
 宮田はなまえを背負うと、教会から出て行こうとする。それに牧野はハッとして声をかけた。

「どちらへ行くんですか?」
「……医院へ戻るんですよ。決まってるじゃないですか」
「……そう、ですか」

 それ以上なにも聞いてくれるなと宮田は顔をしかめる。「……あの、……宮田さんは、どのように考えていますか?」それでも、と。牧野は宮田に問う。

「……どのように、とは?」
「彼女……なまえちゃんのことです」
「……」
「なぜならなまえちゃんは二十年前に───」

 みなまで言わずとも宮田は知っていた。牧野が何を言いたいのかを。牧野の言葉を遮り口を開く。「二十年前に死んだとか、そんなことはどうでもいいんですよ」宮田が牧野の方を振り返る。そこには腰が引けるほどどろりと濁った眼を持つ宮田がいた。

「今ここになまえがいる。それだけのことですし、それだけでいいんです」
「で、ですが!」
「……また俺の前に立ちふさがるつもりですか」
「また……? ……い、いえ、でも、それはなまえちゃんにとって、あまりにも気の毒で……」

 お決まりの常套句。なまえを案じている言の葉だ。宮田は人知れず歯を食いしばる。煩わしい! 邪魔をするな! 燃え上がる憤懣を感じ取った牧野は、ひゅっと息を飲み込んだ。

「なまえにとっても、俺と共に在る方がシアワセに決まってるじゃないですか」

 牧野はそう口にした宮田の表情を見て、ゾッと心を震わせた。それは珍しい表情であった。吊り上げられた口端は恐怖を煽るものに他ならない。
 そこにあるのはひたすらな依存心だ。異常なまでの執着心がそこにはあった。第三者から見ても、それを汲み取ることができた。
 宮田のその心は、尋常ではない。ただただ“異様”である。それだけだった。なまえのことを想っている、それだけに留まらない感情を抱いているように感ぜられた。
 宮田はそこまで言うと、あとは聞く耳持たずに教会から出て行ってしまった。閉ざされる扉に牧野はもどかしさを抱いた。
 牧野は八尾の様子を窺うように見つめる。そして「や、八尾さん」と、縋るように牧野が口を開いた。

「こんなこと、本当に許されるのでしょうか……?」

 そう問うても、八尾は返事をしなかった。その眼は何を見つめているのか分からないものだった。それを不思議に思った牧野は、再度彼女に呼びかける。
 「八尾さん……?」それでも八尾は反応を示さなかった。ただ宮田が出て行った扉をじっと見つめている。「なまえちゃんはきっと鍵となる」突如としてそう言われ、牧野は疑問を抱かずにはいられなかった。

「鍵、ですか……?」
「求導師様は、ここ最近何か変わったことはありませんか?」

 質問を返され、牧野は狼狽する。八尾が何を言いたいのか、理解が及ばないようだった。
 けれども、牧野は確かに八尾のその言葉にぎくりとした。ここ数日、今まで毎日のように見てきた“夢”を見ないのである。やましいことは何もないというのに、八尾のその言葉に硬直する。しかし、そのことは───“夢”のことは、誰にも、それこそ厚い信頼を置いている八尾にさえも言ったことがなかった。それゆえの当惑だった。

「……ええ、確かに、変わったことはありました……」

 そう言えば、八尾はやはりという顔で頷く。
「求導師様も実感されることがあるのですね。やはり、なまえちゃんは“普通”ではないのでしょう」もし夢を見なくなったのがなまえの訪問によるものだとしたら───“だとしたら”と表現するにはあまりにも信憑性はなかったが───牧野にとっては嬉しい誤算ではあった。
 けれども、なまえと夢との関連性は不明なものだった。もしかすると偶然の重なりかも知れない。それほど彼女は“普通”ではないとは考えにくかった。だからこそ、八尾の反応には疑問を抱かざるを得ない。

「……求導師様。私も、彼女を必要としているのかもしれません」
「えっ?」

 私“も”とはどういうことなのか。夢を見なくなった自身のことか? 或いは先ほどの、異常さを感じさせる宮田のことか。もしかすると、双方のことなのかもしれない。牧野はひっそりとそう考える。
 心ここにあらずといった様相で虚ろな目をした八尾を、牧野は困惑したように見つめる。「宮田先生もさすがに常識は弁えているでしょう。そんなにご心配なさらずともいいのではないかしら」八尾はそう言い切った。そこまで断言されると、さすがにこれ以上この話題を続けるわけにもいかなかった。牧野はぐっと言葉を飲み込み、宮田が出て行った扉を見つめていたのだ。

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