ナマエは陽が暮れても帰ってこないガロウの身を按じていた。彼は近頃、とっぷりと太陽が沈んでからプレハブへ戻ってくることが多くなっていた。否、帰ってくる時間が遅いのは問題ではなく───注視するべくはガロウの怪我に関してだった。
 この頃、ガロウは目に余るほどの怪我を負うことが多かった。それにナマエはどうしようもなく歯痒い思いを抱いている。彼が何をしているのかは把握していない。けれども、並々ならぬことに首を突っ込んでいるのではないかと思案していた。

「ガッちゃん……」
「な、なんだよ」
「……」

 そして今日も今日とてガロウはボロボロになって帰ってきた。今回は陽が昇ってからの帰宅だ。時間にして正午のことである。黒い服はあちこちが切り裂かれ、その下の皮膚からは血が流れ出ている。顔に関しては以ての外だ。ナマエは救急箱を抱きしめ、恨めしげな瞳で彼を見つめた。それにガロウは気まずそうにふいと顔を逸らす。
 「……手当て、するからね」ナマエが救急箱から消毒液や綿球、ガーゼ、包帯を取り出しながらそう言うと、ガロウは大人しく従った。口答えすれば泣き出してしまうかもしれないという可能性を─── もっとも、ガロウには口答えする気はこれっぽっちもなかったのだが───否定できなかったからだ。ガロウはナマエが自身の時間を割いてまで手間をかけてくれることに幸福感を得ていた。それに涙を流すまいと必死に堪えている様子は、彼を高揚させる反応でもあった。自身のことを気にかけてくれるのは、気にかけてくれるのは、昔から家族を除いてはナマエくらいだったから。
 “何をしているのか”ということに言及してこないナマエに、ガロウはひとり思議する。気になるだろうに訊ねてこないのは、ある意味でありがたいことだった。
 ガロウは服を脱いで傷の消毒と包帯を巻かれるのが終わるのを大人しく待っていた。ただ静かに、ナマエの手が救急箱と自身の身体を行き来するさまを見ていた。それは自身のものとは違う、小さく柔い手だった。ガロウは思わず目を細める。

「ねえ、ガッちゃん」
「あ?」
「あまり、無理しないでね」

 今にも泣き出してしまいそうな面持ちで笑いかけるナマエを見て、ガロウは思わず彼女の手を引き抱きしめた。ナマエは抵抗せずになすがままにされている。「死にはしねーから安心しろ」その言葉に、彼女は弱々しく頷いた。
 ふんわりとガロウの嗅覚を刺激するのはナマエのシャンプーの香りだろう。自身とは異なりぐにゃぐにゃとした身体の柔らかさも、今のガロウにとっては形の成さない襟懐が後押しされ仕方がない。
 そこで、ナマエはガロウの身体が常温より熱いことに気がついた。「ガッちゃん、熱あるよ」彼女はそう言い、厚い胸板を押してガロウの腕の中から抜け出すと、額に手を当てる。するとちりちりとした熱が手掌から心髄まで伝わってきた。

「あー……そう言われてみれば頭がボーッとするな」
「……ね、もう休んだ方がいいよ」

 「タオル絞ってくるから、横になってて?」ガロウをソファに横になるよう促せば、彼はモヤモヤとした成形しない感情を抱きつつ、ふたつ返事で言う通りにする。それほど身体のいたるところを酷使した結果の反動が襲いかかっていた。
 彼の身体は紛れもなく休養を求めていたのだが、しかしそれ以上に垣間見える欲望にガロウは思わず眉を顰める。それはナマエを抱きしめたときから気配が感ぜられていたものだ。そしてどうしようもなくナマエに触れたいと、そう思った。ガロウはその気持ちの正体を知っているのだ。

「熱、結構高そうだから、数日は休んだほうがいいんじゃないかなあ」
「……」

 ナマエがタオルを濡らし、絞る。そしてそれをガロウの額の上に乗せた。ガロウは心配そうに見つめてくるナマエの頭をがしがしと荒々しく撫でる。
 この場にいるのは当然彼らふたりのみである。生きるか死ぬかの瀬戸際で、ぎりぎりで命をつなぎとめたガロウは、本能的に種の保存に対する欲求が膨れ上がっていた。熱に浮かされてはいるものの、先から主張してくるのは紛れもなく生理的欲求だったのだ。
 第一に睡眠欲。けれども交感神経が優位な現状では眠気すら起こらない。第二に食欲。けれども交感神経が優位な現状では空腹感すら覚えない。第三に性欲。つまるところ、この欲求が顔を覗かせているのだった。
 言葉こそ交わされることはなかったが、ふとガロウの纏う空気がどこか艶めかしくなる。頭を撫でていたはずの彼の手が、するりと下がっていく。やがてはナマエの頬を撫で、親指が唇に押し当てられた。すると困惑した面持ちのナマエが口を開こうとする。それを見かねたガロウは「黙ってろ」とだけ言い、唇に指を押しつけた。ふにふにと柔らかな感触を弄ぶかのように、形を確かめるかのように、何度も何度も押し付けられる。
 そして唇を割って指を咥内に侵入させようとしたそのとき───ガタッという物音が聞こえた。
 「誰だ」その音に素早く反応を示したガロウはソファから飛び起きる。ナマエは落ちたタオルを慌てて拾い上げた。

「ここで何してる」

 ぬうっと暗闇から現れた男に恐れを抱いたのだろう。招かれざる客は「ひっ……」と恐れ慄いた声を漏らす。ナマエは誰かれ構わずに脅しをかけるガロウを落ち着かせようと「ガッちゃん、」と呼びかけた。すると、恐る恐るといった足取りで現れた人物にふたりは目を丸くする。

「こ……こここの小屋は、ぼ、僕達の秘密基地で……」

 怯えながらも姿を現した小さな訪問者に、ガロウとナマエは顔を見合わせた。そして「……おいお前。公園のベンチで───」とガロウが言いかけたところで、ナマエが声を上げる。

「タレオくん」
「……あ!お姉さん……!」
「は?」

 少年のことを名で呼ぶナマエに、ガロウは怪訝そうな顔になる。何故名を知っているのか、いつの間にそのような関係になったのか、相手はまだ幼かったが、目の前で仲睦まじげに会話をされれば嫉妬心が湧いてくる。

「お姉さん、僕……」
「うん、なあに?」
「……と、友達に、皆に行けって言われて……」
「……チッ」
「ひっ」
「!ガ、ガッちゃん、どうしたの?」
「なんでもねーよ。ガキ、泣くな鬱陶しい」

 舌打ちしたガロウに恐怖したのか、或いはこのプレハブへ入るよう強要してきた友人に恐怖したのか、真偽は不明であるが、少年───タレオはめそめそと涙を流す。それをガロウは一刀両断してみせた。機嫌は良さそうではない。ゆえにタレオは必死こいて涙を止めるほかなかった。
 「……お前に良いことおしえてやろうか?」憤怒か嫉妬か憎悪か、はたまたそのどれらにも該当しないのかもしれない。ガロウは瞳の奥に感情を燃え上がらせ口を開く。

「周りにバカにされたり命令されるのが嫌だったらな、強くなりゃいいんだよ」

 フン、と鼻を鳴らしガロウはそう言った。それにナマエとタレオはぽかんとする。
 「え……強くなれば……って……いや……そんなの……当たり前じゃん……」タレオは汗をかきつつそう口籠る。すると、その言葉がガロウを刺激したのか、彼は握りこぶしを作るとそれでテーブルを叩いた。それにまたタレオが「ひっ」と悲鳴を溢す。

「そう!当たり前だ!何だお前知ってたんじゃねーか!」

 嬉々とした表情だった。世界は力を持つ者こそが全てなのである!ガロウは紛うことなき確信を抱いている!清々しいまでの笑顔がそこにはあった!ガロウはくくく、と笑い声を咬み殺す。「ぐッ笑うと傷が痛む……」その様子を見かねたナマエがガロウの背を支える。

「おじさん、怪我してるの!?」

 恐れに背を押されていたがために気がつかなかったが、今のガロウは全身を包帯に巻かれていた。タレオは心配そうな双眸でガロウのことを見つめる。そして「お前はもう帰れ」と、そう言われた。
 「う、うん……」結局今日は秘密基地を奪還することが叶わなさそうであり、友人のもとへ戻って何と言い訳をしようと考えながら、タレオは立ち上がる。だが「っ待て!!」と焦ったような声音で制された。

「お、おじさん?どうしたの?」

 ガロウはプレハブを囲うようにして殺気立っている者を察知したのだ。どうせ自分を追ってきたヒーローだろう。今外に出ようものなら正体を確認する前に殺されてしまう危うさがあった。それを避けるために声をあげた次第なのである。
 タレオは困ったような表情でガロウの方を振り返る。するとガロウは口角を上げて口を開いた。

「良いこと教えてやったお返しに……持ってんだろ?ヒーロー名鑑見せろ」

 プレハブを囲うヒーロー共を狩り己の糧としてみせる。ガロウの腹の奥底で激情が燻り爆ぜた瞬間だった。

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