ことこと。音がする。おまけにかぐわしい香りも漂ってくる。さらには、どういうわけか寝心地も抜群だった。このような寝床で眠られるのはなかなか珍しい。ナマエは今のうちに存分に堪能しておこうと、寝返りを打つ。そしたら頭部に鈍痛が走る。「いたいよ!」「うるさいわ」よくわからないが怒られた。ナマエははっと目を覚ます。

「目が覚めたようね」

 ぱたん、と分厚い本を膝の上で閉じた少女は、確か……。

「ロリババアさん」
「誰がババアよ! ふざけたことぬかすと、ぶん殴るわ……」
「ひえ! わ、わたしじゃないよ、さ、最初に言ったのはアレックスさんで、わたしじゃ……ううっ」

 頭に落とされたら百発百中気絶してしまうような厚さの本を持った少女がぶるぶると震えるので、ナマエは身体を縮こまらせ部屋の隅へ逃げた。両手で頭を抱えようとすると、ずきりとした痛みに思わず顔をしかめた。思わず涙目になると、少女は眼を丸くした。

「あら、たんこぶできちゃったみたいね」
「たんこぶ……?」
「貴女を運んできてもらうとき、手荒な真似はしないでとお願いしたはずなのだけれど……あのクソウサギ……」
「ウサギ……?」

 頭の上に疑問符を浮かべるナマエだったが、しかしほのかな甘い香りが嗅覚を刺激するものだから、耳をぴんと立て、尾をぶんぶんと振る。「わあ、いいにおい」そしてほにゃりと頬を緩ませる彼女を見て、少女は溜め息をつく。
 ロリババア───もとい少女は、そんなナマエを注意深く観察する。どうやら彼女はオオカミらしからぬオオカミのようだった。まるで警戒心がないのだ。現在も、オオカミを忌み嫌うニンゲンの前にいるはずなのに、芳香に気を取られ喜んでいる。そんな彼女に少女は再度溜め息をついた。
 そしてナマエの頭にできた大きなたんこぶを処置するために氷の入った袋を取り出した───“手”ではなく、“未知の力”で。宙に浮いた治療道具に、ナマエは呆気にとられる。だが、その能力を目にしたナマエは、恐怖より感動が勝ったように目を輝かせる。そんな畏怖の畏すら感じない彼女に少女は少しだけ目を見開いた。

「ナマエ、あなたはとんだ大物ね」
「! わたしの名前、知ってるんだ!」
「私のこの力を見て驚かないひとなんて珍しいわ」

 なぜ名前を知っているか、その質問を無視した少女は真っ向からナマエのことを見つめる。その様相にナマエはきょとんと眼を丸くした。「力? もしかして、昨日割れちゃった窓を直したのもその力でなの?」彼女はのんびりしつつも周りの変化に気がついていた。
 少女は普通のニンゲンにはない力を持っている。いわゆる“超能力”という力を。常人が持つにはあり得ない力なのだ。それは少女が生まれたときから所持しているものである。
 通常、ニンゲンはオオカミの住む森へは足を踏み入れることは───面白半分で訪れる者はときたまにいるのだが───ない。遭遇すれば最期、喰われるという迷信が蔓延っているからだ。それが真実であるかどうかはさておき。少なくとも、ナマエはそれに該当しないオオカミであるのは覆しようのない事実である。
 実のところ、狩猟目的に森へ来る者も少なくはない。だが、ナマエらはそのようなニンゲンに遭遇したことは一度もないのだった。

「あなたのことならなんでも知ってるわ」
「わあ、すごい! 初めて会ったのに」
「お肉が食べられなくて木の実や果実ばっかり口にしてるんでしょう?」
「そうなの! でも、ジョシュくんにはそれじゃあダメだって言われてて……」
「そう? 私は個性だと思うのだけれど」

 なぜ少女がナマエの細部まで把握しているのか、ナマエはなんの嫌悪も抱かなかった。ただただ“すごい”という感情しかないのだ。なるほど、ジョシュアが目を光らせているのも頷ける性質だ。
「わたしのことをこんなにも詳しく知ってるのはどうして?」ここでようやく、なぜ少女が自分の情報を隅から隅まで解しているのか訊ねた。少女はなにも言わずにロッキングチェアから降りると、ナマエの元へ近寄り頭を撫でる。やはりと言うべきか、たんこぶはなかなかのものだった。

「しばらく冷やしておくといいわ」
「うん! ありがとう」

 氷嚢を頭の上に乗せるとぱたぱたと尾を振るナマエに、少女は思わず笑んだ。わかりやすい反応もかわいらしかったが、それ以上に純粋な女の子が新鮮で、見ていて微笑ましかったからだ。 

「でも、どうしてニンゲンなのにここにいるの?」
「……追い出されたのよ」

 少女がニンゲンであるにもかかわらず森で暮らしているのは、当然それ相応の理由がある。ニンゲン界から追放されたと言っても過言ではないのだ。いわゆる“普通”から除外され、同族から嫌悪され忌避されるのは想像以上に耐えがたいものがあるだろう。それを小さな身体で受け止めている少女に、ナマエは耳を下げる。

「追い出されちゃったの?」

 ナマエのなかでは、同族というものは仲良くするものだという固定観念があった。実際、彼女はアレックスとジョシュアと仲睦まじいものだから、余計にそう思ってしまうのだ。彼女は他の生き物と意思疎通を図ったことがないものだから、井の中の蛙であることに気づけなかった。
 だが、アレックスとジョシュアは、ニンゲンと遭遇したことはないにしても、オオカミとニンゲンの間には対立するべき間柄にあると親に言い聞かせられてきたがために、警戒を怠ったことはない。否、ナマエもオオカミとニンゲンは接触を避けるべきであるものだと伝えられてきたのだが、それでも彼女にとっては“接したことがなければそうとは言い切れない”という考えを持っていた。ぽやぽやしていても、一応自分の意見は持っているのである。

「それじゃあ、わたしとお友だちになろうよ!」
「……友達に?」
「うん! わたしね、ここの湖がお気に入りで、でも三角頭のひとがここにくるから、来ちゃダメって言われてて……。それでね、ほかの場所も探してみたんだけど、あんまりいいところがなくって……。でも、お友だちになったら遊びに来れるから!」
「……ふ、ふふ、そうね。それじゃあ、友達になりましょう?」

 にっこりと満面の笑みを浮かべるナマエにつられて、少女も楽しそうに笑った。少女が腹の底から笑ったのはだいぶ久しいことだった。少女はそんな自分に驚くが、そのような魅力を持っているのがナマエの長所なのだった。

「それでね、あなたの名前はなんていうの?」
「アレッサよ。アレッサ・ギレスピー」
「アレッサちゃん! これからよろしくね」

 そして蕩けそうな微笑みを浮かべるナマエを見て、またつられて笑うのだった。

「ところで、昨日はレッドピラミッドシングがごめんなさいね」
「レ……?」
「ああ、ナマエの言ってた三角頭のこと」
「そんなに長い名前だったんだあ。わたし、覚えられそうにないや」
「三角頭でいいわよ。……彼、ナマエにはきっとなんて呼ばれても嬉しいと思うから」
「? そうなの?」
「そうなの。私、なんでも見透かしちゃうんだから」
「アレッサちゃんはすごいんだねえ」

 ただ、許容しているようにそうは言うものの、アレッサは三角頭の抱いている気持ちに関して複雑な心境を抱いていた。オオカミとニンゲンは、一般的には相いれない存在なのだ。そしてその境界線を乗り越えるのは容易なことではない。彼はそれをどのように思っているのだろうか。それは今後三角頭と話し合う必要───口頭ではなく心理的な話し合いだが───がある。だが、ふたりならその逆境を乗り越えられると、そういう確信があった。なぜかはわからない。ただ、ナマエだから、ナマエなのだから、どうにかなってしまう、という思いが湧いてくるのだ。それは今後の展開を見守ることにしよう、アレッサはひとりそう思ったのだった。

「ん! わたし、さっきから香ってくるにおいが気になってるんだけどね、アレッサちゃん、なにか作ってるの?」
「煮リンゴよ。ヨーグルトに混ぜるとおいしいの」
「煮リンゴ! 食べたことない!」
「火を使うものね。実は私、ナマエがここに来るから作って待ってたのよ」
「わたしが、ここに?」
「申し訳ないことに手荒な真似になってしまったのだけれど。クソウサギにはあとでうんと仕置きをしておくわ」
「その、ウサギ? ってなんのこと?」
「言葉の通りよ。ロビーという名前のウサギがいるの。ニンゲン界に住んでいるのよ」
「三角頭さん以外にもニンゲンが来てるの?」
「そう。ナマエ、ロビーに会う前に数人女性を見かけたでしょう?」
「うん。なんだか、とってもセクシーで、びっくりしちゃったの」
「ふふ、確かに露出が多いものね」

 そこまで話すと、アレッサは冷蔵庫からヨーグルトを取り出すとふたつの皿に盛りつけ、そのなかに煮リンゴを投入した。そしてスプーンをナマエに渡し、ふたりで食したのだった。

「アレッサちゃんはどうしてわたしをここに連れてきたの?」
「……」

 アレッサは少々考えた。その理由はつまるところ、彼女は昨日食糧を持ってきてくれた三角頭がナマエに好意を持ってしまったことを即座に察知したからだった。謂わばひとめぼれというものである。だが、ふたりは相反する生き物だ。その恋路の末路は悲恋なものになってしまうかもしれないという可能性は十二分にある。
 三角頭はニンゲン界において有名な人物である。ニンゲンたちはみな、三角頭が週に一回、森のなかへ入るという殊勝さに一目置いているのだ。オオカミの暮らす森へ足繁く通うさまは、常人であれば考えつかないような行動なのだから。しかし、三角頭がなにをするがために森へ入っているのかを承知しているものはごく一部に限っていた。それこそ忌み嫌われているアレッサの元へ訪ねていると知られたら、彼の立ち位置が危うくなってしまう。けれども彼はそんなことは跳ねのけ、現在に至るのだ。そして不本意にも恋に落ちてしまった三角頭は、週に一回どころか、二回、三回と、通う頻度が高くなるであろうことをアレッサは推測していた。
 ナマエは三角頭の好意に気がついていないだろう。それどころか苦手意識を持たれているということはアレッサの想像にも容易い。そう、三角頭は不器用な男だった。アレッサはふたりがどのようにして親睦を深めていくのか興味があった。そして楽しそうに言ったのだ。

「そうね。貴女達が仲良くなってくれたら、嬉しいと思ったからよ」

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